2003年12月7日

「主を待ち望む」 ルカによる福音書 2:25〜35

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 シメオン、「主は聞かれた」という意味の名をもった老人は、約束に生きていました。それは、メシアを見るまでは死なないという約束でした。シメオンにとって、その約束とは「希望を持って待つ」ということでした。それは、彼にとって何もしないで、ただ立ち尽くしていつになるかわからない約束のものの到着を待ち続けるということではありませんでした。そうではなく、与えられた約束を信じ、約束が実現しているかのように喜びをもって毎日を生きることでした。「待つ」ということ、私たちは苦手です。何でもすぐに実現したいし、手に入れたいし、変えていきたいものです。なぜなら、「待つ」ことには不安が伴うからです。保障がないからです。現代においては、「待つ」ことにあまり価値が置かれていません。何でも早いことが良いことと考えられ、本当に必要なものを見えなくさせています。 

 しかし、聖書の中には神を待ち望む人たちに、神は「約束」という待つための力を与えてくださっています。聖霊によってメシア、イエスを身ごもったマリアもエリザベスから「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう(1:45)」と称えられました。また、エリザベスとザカリヤにも不可能とあきらめていた子、バプテスマのヨハネを授かるという約束が与えられました。希望をもって生きることは、自分の計画通り、思い通りに生きることとは反対のことです。自分の計画を捨て、神の都合を受け入れることです。たとえ、私たちが瀕死の状況にあるとしても、希望が霊と魂とを生かし導くのです。たとえ、肉体は滅んでも、希望は生き、希望を信じる者は共に生きるのです。どんな試練、絶望の中にあっても、神が全てのことを益としてくださることを期待して待つとき、神の業はすでに始まっているのです。では、今に生きる私たちに主は「待つ」ことに耐え得る約束を与えてくださっているのでしょうか?そうです。イエスさまは数々の約束を、信じ待つ者たちのために与えてくださっています。「わたしは羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。」「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。」「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。」「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」「わたしは道であり、真理であり命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」

 クリスマス、それは、私たちに一番必要なもの、魂の救いのための御子イエスを神がプレゼントして下さった日を覚える時です。神こそあなたが救われることを待ち望んでおられるのです。