2003年11月30日

「聞く耳」 サムエル記上3章1〜21

 最近、世間に、人の言うことを聞かない人、聞こうとしない人が増えているように感じます。大人も子供も、自分の主張ばかりが強く、相手の言い分を考えない人が多くなっているように思います。国同士のこともそうです。イラクとアメリカの問題や北朝鮮の問題。もう少しお互いが相手の言うことを冷静に聞けば、良い解決への道が開けるのではないかと思ってしまいます。
 米長邦雄さんという将棋の棋士がいます。彼は東京都の教育委員を任されているのですが、その米長さんが子供の教育に将棋がとても良いものだと改めて気が付いたと言っておられます。何が良いのかというと、将棋が一手づつ交互に指すルールだからだと言います。「自分の発言の後に二手も三手も続けて発言をする人がいる。将棋は一手指したら次は相手の番」そう米長さんは言います。相手の言うことを聞かなければ、対話、コミュニケーションは生まれないということを自然に教えてくれる最良のものが将棋だと言うのです。

 対話が成り立つために大切なこと、なくてはならないことは、相手の話を聞くということです。イエス様も神の国を語られる時、よくこう言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」私たちは果たしてイエス様のおっしゃるように「聞いて」いると言えるでしょうか。聞くというのは簡単なようでけっこう難しいものです。「聞こえる」ということと「聞く」ということは違うものです。
 旧約聖書にサムエルという預言者が登場します。サムエルは母から乳離れをするとすぐに神殿の祭司エリのもとに預けられ、主に仕えながら成長していきました。サムエルが少年の時のある日、神様がサムエルに直接語りかけられるということがありました。しかし、サムエルはそれを神様の声とは気付かず、祭司エリの声だと思い、エリのもとへ行きます。しかし、エリは呼んでいないと言います。それが三度繰り返されるのですが、三度ともサムエルはそれが神様の声とは気付かす、エリのもとへ行きます。エリはようやくそれが神様の声であることに気付き、それとなくサムエルに告げます。そして四度目に神様がサムエルをお呼びになった時、サムエルは答えました。「どうぞお話ください。僕は聞いております」ここから神様とサムエルとの対話が始まりました。今まで「聞こえて」いただけだったものを、サムエル初めて「聞いた」のです。「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」と書かれているように、その対話、神様とのキャッチボールは豊かなものでした。神様がサムエルの言葉を落とすことなくキャッチしていたように、サムエルも神様の言葉を「聞いて」受け取っていたのだと思います。

 「神様の言葉を聞く」などと言うと、何やら怪しげで神秘的なように思われるかもしれませんが、そうではないと思います。神様の私たちへの語りかけは音や声に限ったものではありません。様々な形で示されてくるものです。ただ、どういう形であれ、私たちが「聞こう」と思わなければ、気付きにくいものでもあると思います。では、どうすれば神様の語られることを聞くことができるのか。サムエルのように対話ができるのか。聖書を読んでいると、それこそが「祈り」というものなのだということがわかってきます。私たちは日々、多くのことを祈ります。感謝をします。お願いをします。神様はそれらをすべて慈しんで聞いてくださる方です。では私たちはちゃんと神様の語られることに耳を向けようとしているでしょうか。相手の言葉を聞こうとすることで、初めて対話が成り立つように、多くのことを祈る時、必ず静まって聞くということも必要だと思わされるのです。

 マルコによる福音書の14章に、ゲッセマネで祈るイエス様の姿が描かれています。そこでイエス様はこう祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」自分の主張したいことを言った後に、でも神様が示してくださることは何ですか?と「聞く」祈りです。イエス様はこの神に聞く祈りをここで三度も繰り返されました。

 耳を澄ませば、今まで意識しなかった様々な音が聞こえていることに気が付きます。神様の声も、実はいつも聞こえているのではないでしょうか。「どうぞお話ください。僕は聞いております」と言ったサムエルのように、いつも耳を神様の方向へ向けていたいものだと思います。