2003年11月23日

「大切なものを」 コリント第一13章

 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 昨日、教会員の姉妹の結婚式が行われました。喜びと祝福の中で二人の人が一つとなり、新しい人生の出発の時を迎えました。神と人との前で二人は約束を交わし、夫婦となったことの不思議と、夫婦となっていくことの難しさをも分かち合っていくことになった訳です。作家の三浦綾子さんは「新しい鍵」というエッセイの中で、夫婦であることの意味を語っておられます。たった一枚の紙切れでさえ裏表があり、まして人間がいかに複雑で一言では語れない存在であることにも触れておられます。パウロという人は私たち人間の愛と神の愛との決定的な違いについて語りました。それは、この愛の章と言われる愛の性質を読めば分かります。彼が語る愛の定義のどれをとっても、私達人間はその意味するところを満たすことはできません。どんなに深い愛を自認する人でも、人の愛には限界があります。相手が自分にとって受け入れやすいものであれば当然愛を注ぐことはできます。しかし、思ってもいなかった試練や艱難に遭遇するとき、私たちは互いに知らなかった性質をあらわにしてしまいます。それでも耐えて愛することを止めない人もいるかもしれません。しかし、人は繰り返しや、長期にわたる試みには耐えられないものです。三浦さんは夫、光世さんとの対談の中で、夫婦生活には「不幸せに陥るチャンスがある」と語ります。神は天地創造の時から今日に至るまで、結婚という私たちの営みの中に不思議な秘密を隠しておられます。「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となる」(創世記2:24)との言葉は、夫婦という神が定められた関係の中で、人は神の愛を学んでいくことを示していると思います。試練の中でこそ夫婦は夫婦となれるチャンスがあるのです。

 結婚の誓いは神との誓いです。夫婦の間に起こるであろう揺らぎ、実は人間関係における問題ではなく、各々の神との関係、神と果たした約束における問題なのです。したがって、それは夫婦の関係の危機なのではなく、信仰の危機、約束の危機なのです。愛は約束に基づいています。状況や状態に基づいているのではありません。神は私達の不完全な愛に対し、完全なる愛、約束の愛、無条件の愛によって私たちを愛してくださっています。私たちの罪を赦すために神は最も大切なもの、御子イエス・キリストを私たちに下さり、私たちはその愛を受けることによって、神の愛を実践していくのです。