2003年11月9日

「それがどうした」 ローマ人への手紙8:26〜29

 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 人は誰でも本当は神様のことを知りたいと願っていると言います。人は大昔から神を求めてきました。そして、さまざまな神、さまざまな宗教を作ってきました。人が、大いなる方の存在を認め、求めるのはある意味、神が存在しておられる確かな証拠のひとつではないかと思います。

 使徒パウロは当時の世界の中心にあったローマに生まれた教会に対して大胆に語りました。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。(ローマ1:20)」彼の言葉によれば、人間には神を知ることにおいて弁解の余地はないというのです。世界中で起こっている全ての問題は、本当の神様を知らないことから起こり、知っているといいながら、的外れなことをしていることから起こっているとパウロは指摘しているのです。言い方を変えれば、神の意図されていない私たちの苦しみや悲しみは、神様の法則と基準を無視して生きているところに存在するということです。イエスさまも神を求める者の幸いを語っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。(マタイ7:7-10)」

 毎日の出来事に偶然はありません。神さまが知らないで起きている出来事など一つもありません。私たちと共にいてくださることを神は私たちに知って欲しいのです。

 フランスの自然科学者、数学者、哲学者、そして神学者であったパスカルは、幼い頃より天才と呼ばれました。しかし、彼はやがて心の空白、魂の渇きを自覚するに至り、ついにキリストを自らの救い主と信じ、「イエス・キリストは、われわれが傲慢にならずに近づくことができ、絶望に陥らずにひれ伏すことができる神である。」とさえ証言しました。また、彼は人の不信仰に対し、「人々は、宗教を軽蔑している。宗教を憎み、宗教が真実であることを恐れている。」と言い、人間の心の空洞が、この世のもの何をもってしても埋めることはできず、ただ神のみによってしか埋めることができないことを証ししました。確かに、目に見えぬ神を認め、神に従って生きることは困難なことです。できれば自分の思い通りに生きたいのが人間です。しかし、私たちの神への不信に対するどんな言い訳や弁解の言葉にも神はきっとこう言われるに違いありません。So What! 「それがどうした。」神は、私たちが神を知ろうとさえすれば、見つけようとさえするなら現れてくださると言うのです。パスカルは言います。「神がある人たちを盲目にし、他の人たちを照らしたいと願われたことを出発点として受け入れなければ、われわれは神のみ業を何一つ理解することはできない。」「信仰がなければ、大空も鳥たちも神を証明することはできない。」万事が益となって働くために必要なことは、神を知り、神を愛する者と私たちが変わることです。信仰を持つことです。神を信じることなしに、人生の不条理や矛盾を益としていくことはできません。そして、弱い私たちに神は神を信じる力と慰めを与え、とりなして下さる霊、聖霊を送ってくださいます。