2003年11月2日

「試練と共に」 第一コリント10:30

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 私たちの人生の中で巻き起こる試練や艱難は、私たちの罪の結果ではないとパウロは言っています。試練には目的があり、意味があると言うのです。そしてまた、私たちにとっての苦しみは試練そのものだけではなく、試練が神さまから与えられているということを受け入れられないところにもあります。「神がいるのなら、何故こんなことが・・」「神は愛なり、と言うのなら何故こんな苦しみを許しておられるのか・・」確かに私たちが被る苦しみは深ければ深い程その説明を拒絶するに違いないと思います。ましてや、試練を通して神が存在するなどと信じられるはずがありません。自分のせいで被る苦しみなら受け入れざるを得ないでしょう。しかし、犯罪や戦争など人間の罪によってもたらされた苦しみを受けた人はどのように癒される道があるのでしょうか?

 先週の教会学校の中高科のクラスで、「もし、あなたの命があと2ヶ月しか無いとしたら何をしたい?」というテーマで話し合いを持ったそうです。あなただったらどうするでしょう。「死」という現実は、私たちが何をしてきたか、どれだけ生きたかに関係なく、その瞬間その人が何を信じ、何に頼っているかを明らかにします。人間にとって逃れることのできない最悪の試練とは何でしょう?それは、私たち誰もが避けることのできない「死」ではないでしょうか。しかし、神はその「死」という現場に共にいてくださるのです。あるいは、死にたいと思うほどの苦しみの現場に共にいてくださるのです。神はご自身、私たちと同じ様となり、人として試練を味わってくださったと聖書は語るのです。「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(4:15,16)とヘブライ書は言います。神は私たちに宿題を出すだけで、高みの見物をしておられるのではないと言うのです。そして、「事実、(キリスト)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ書2:18)と、逃れの道そのものになってくださると言うのです。

 神が私たちに賜る試練には目的があります。それは、私たちが試練を通して、目に見えぬ神の存在と助けとを知ることです。そして、試練の持つ意味とは、私たちが試練を通して目に見えぬ神と信頼関係を持つことです。試練とは、神とのぶつかり稽古のようなものです。試練は私たちの物分りの良さを砕き、信じる力を与え、神に信頼する訓練を与えてくれます。長老ペテロは試練に耐える者の幸いについてこう言います。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、なたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(1ペテロ1:5-7)