2003年10月26日

「主の満たし」 使徒言行録 2:25〜28

 最近の意識調査では、「私は自分に大体満足している」あるいは「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」と思っている日本の中学生は約9 %しかいないという結果が出ています。これは、日頃、満たされて、余裕のある心の状態にないので、想定外のことが起こったときに適切に対処する自信がもてない、ということではないでしょうか。変化に対する適切な選択を行うためには、生活の基本に「満たされた」思いが必要です。この満たしの状態がないと、人はかたくなになり、柔軟性を失い、これまでの成功体験だけで同じように物事を対処しようとして、結果的には失敗してしまうことが起こってしまいます。また、私たちは、衣食住のような物質的な満たしだけでは満足できません。満たされた状態が長続きしないのです。つまり私たちは、いつも新しい満たしを求めています(詩篇1:3)。そして、満たしは恵みそのものなのです(第2コリント9:8)。

 主の満たし(恵み)は、完全です。過不足がありません。人生は山あり谷ありですが、深い谷にあればあるほど、より大きな恵みに支えられています。私たちが立っていられるのも、足の下から体重と同じ力で支えてもらっているからなのです。そうした満たしに対する応答が感謝です(第2コリント4:15〜16)。

 ほんとうに満たされた状態とは、人が呼吸によって活力を得ているように常に新しい恵み(主の満たし)をとり入れている状態なのです。小説の最後のハッピーエンドの部分だけ読んでも満足できません。人は結果ではなく、経過に満たされるのではないでしょうか。なぜなら常にイエスさまの関与があることを確かめることができるからです(使徒言行録2:25〜28)。

 そして満たすものは何でしょうか。それは、物質的な一時的なものではなく、イエスの恵み、神の愛、と聖霊の仲介なのです(テトス3:5〜6、第2コリント13:13)。

 それでは、毎日毎日、多くの雑事に追われているときに、満たす時間はどう作ればいいのでしょうか。聖書は語ります。イエスさまはいつも私たちのそばにいます(創世記28:15)。つまり時間はいつでもOKなのです。私たちさえ、その戸を開けばいいのです(黙示録3:20)。そして、開くためには、小さな死と小さな勇気が必要です。小さな死とは成功体験を白紙にし自分をゼロに戻すこと(イザヤ55:7)。小さな勇気とは自分の傷を受入れて、私たちの前に自分の罪を差し出し(詩篇51:3〜5)、光を見上げて、世を救うために来られたイエスさまにすべてを委ねていくことなのです(ヨハネ12:46〜47)。