2003年10月19日

「愛は神から来て、あなたに宿る」 ヨハネの手紙(一)4章7〜12

 「愛」とは何と響きの良い言葉でしょうか。そして「愛」はいつも私たちの心を和ませてくれるすばらしいものです。私たちの回りにもさまざまな「愛」の形があります。「夫婦の愛」「親子の愛」「兄弟愛」「恋人どうしの愛」「仲間を愛する友情愛」「また自分を愛する自己愛」。特に若い人から見ると「愛」はすごく純粋で、最も尊いものではないでしょうか。皆さんも若かりし頃は「愛」は希望であったりまた夢を抱かせてくれる存在ではなかったでしょうか。
 しかし私たちはこの純粋で最も尊く、そして希望であり夢であった「愛」に裏切られて、心にたくさんの傷をおってきました。と同時に私たちもその「愛」を裏切り、傷つけてきました。そして年齢を重ねるごとに「愛」を口にすることが無くなって来ました。この社会に「愛」など必要ない、「愛」など存在しないと思うようにもなってきました。「愛」を口にしたり、「愛」が必要なときは、ただ取引の材料として使うようになってきました。例えば「夫が妻に」「妻が夫に」愛してるよと言うとき、お互いその背後には必ず取引の何かがあります。

 また最近の事件などでも、愛し合って結婚したはずが、妻が夫に生命保険をかけ暴力団に頼んで殺してしまったり、妻を仲間と一緒に殺してしまったりと、悲しい事件が後を絶ちません。私たちが思い描いていたあの純粋で尊い「愛」は一体どこへ行ってしまったんでしょうか? 実はこの世に私たちが思い描いていた真実なる「愛」は無かったのです。私たちは偽りの「愛」の中で生きて、偽りの「愛」を真実なる「愛」だと思って生きてきたのです。ですからその「愛」は時とともに崩れ去って行くのです。この「愛」をエロースと言います。また自己愛と言っても良いでしょう。自己愛とは自分を中心にした「愛」です。私が誰かを愛した。だから自分も愛される。いつも条件つきの「愛」なのです。ですから、私たちはいつも真実なる「愛」に飢え渇いていました。しかし、神様の「愛」は違います。

 10節に「わたしがたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さった。」とあります。そうです、神様が一方的に私たちを愛して下さったのです。私たちがそっぽを向いていたときも、また神に敵対していたときも、変わらずに愛して下さったのです。また神様の「愛」はただ口で「おまえたちを愛しているよ」ではないんです。愛に飢え、罪に苦しむ全ての人々を救う為に、自分の最も愛する御子イエスの命を差し出して下さいました。これが十字架によって示された「真実の愛」なんです。「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ヨハネ3・16 通りです。このように神様の愛は常に与える愛(アガベーの愛)なんです。そしてこの愛が私たちのところに来て下さった。そしてこの真実なる愛を受け入れ信じるならば「神はその人の内にとどまって下さる」15節 と約束してくださっております。

 私たち一人一人が神の愛を中心とした中での人間関係が出来ればきっと世界から戦争がなくなり、平和な世界になって行きます。同じように家庭もそうであります。自分という「個人」もそうです。神の愛が私たちの中でいつも中心になるとき、そこはまさに「神の国」「天国」なんです。ある人々がイエス様に尋ねました。神の国はどこにあるのですか・・・イエス様は次のように仰せられました。「神の国は、ここにある、あそこにあると言えるものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるんだ」ルカ17:20〜イエス様を信じ受け入れ、そして互いに愛するところには「もう悲しむ者、泣く者、涙する者はない。見よ、全ては過ぎ去った。私はあなたと共にいる。」