2003年10月5日

「だれのところへ」 ヨハネによる福音書6:60〜71

 "そして、イエスは言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」"

 聖書は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル書11:1)」と語りますが、信じるに値する証拠でもあればどんなにか楽でしょう。目に見えぬ神を信じ、その神に従っていくということは、目に見えるものに拠り頼んで生きている私たちにとっては難しいものです。神に選ばれた民と呼ばれたイスラエル人にとっても、それは同じことでした。しかし、神は2000年前、人間の歴史の中でただ一度だけ、その存在を見える形で現して下さいました。それがキリスト・イエスでした。イエスさまは、預言者が預言したように、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げてくださったのです。そればかりか、6章の冒頭で記録されたようにイエスさまは、後を追う五千人以上の群衆の空腹をわずか二匹の魚と五つのパンをもって満たされたのです。しかも、その後湖の向こう岸に水の上を歩いて渡られるという奇跡を行われました。主イエスは見える業と言葉とによって、ご自身が来るべき神の子キリスト(救い主)であることを明らかにされたのです。しかし、イエスさまははっきりと申されました。人々の信仰の基はパンを食べて満足したところにあるのだと。

 イエスさまは、人々の願いや必要を満たし、見えぬ神の人々に対する愛を余すところなくお伝えになりました。そして、その上で主は本来のご自身の使命を語り始められたのです。「私は、天から下って来た、生きたパンである。」「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・」イエスさまは、多くの人の罪のために流される血と、贖いのためのご自身の体のことを語っておられたのです。しかし、人々はその意味を理解することはできませんでした。多くの弟子たちは離れ去って行きました。そして、イエスさまは12弟子に問われました。「あなたがたも離れていきたいか」。どれ程語っても分かってもらえない寂しさ、いくら言っても聞いてもらえないもどかしさがその言葉には漂っています。

 人は信じるものを求めてさまざまな所へ行き、さまざまな人のもとへと向かって行きます。自分の抱える問題が大きければ大きい程、現実的で分かりやすい答えを求め、一時も早く与えてくれる者のもとへと向かうのが人間です。大いなる体験をした弟子たちでさえイエスさまのもとへ、イエスさまに従っていくことに揺らぎを覚え、イエスさまから離れ去りました。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか?」とのペトロの苦悩は私たちの問題でもあります。しかし、私たちの行くところ、命に至る道は、私たちのために命を投げ出して下さった主のもとにしかありません。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。(ホセア6:1-3)」