2003年9月28日

「真実の言葉で」 ローマ人への手紙1:14〜16

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 作家の三浦綾子さんが、小説や対談の中で川谷牧師の言葉として「なおざりの言葉が文化を滅ぼす。」と語り、ご自身も「そのうちいらっしゃいね」とか「行くわね」とか、そういう言葉の積み重ねからは何も生まれない、だから、よく考えて真実こめた言葉を使う必要がある、と語っておられます。私たちは成熟した社会に生きていると言いながら、言葉とその実(じつ)についてはまだ未熟なところがあるのかもしれません。言っていることとやっていることの落差、あるいは発した言葉への責任など、言葉を扱うのは並大抵なことではありません。そして、語られ、伝えられる言葉の源についても私たちはあまり注意を払うことがありません。

 コリントの教会に宛てて、使徒パウロは自分自身の人生を支えるキリストの福音の言葉に揺らぐ信徒の信仰に迫ります。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」(15:9〜12)信仰というのは揺らぐものかもしれません。しかし、草木は根があって揺らげるものです。パウロは人の救いの根源は、神が人となり、全ての人の罪の身代わりとして主イエス・キリストが十字架に死んでくださり、赦された証しとしての復活という事実の中にあり、その福音は神の力、神の知恵であると言っています。

 詩篇146:4には「霊が人間を去れば人間は自分の属する土に帰りその日、彼の思いも滅びる。」とあり、ヨブ記12:2では、「確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ。」、また、詩編49:10,11でも「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは、知恵ある者も死に無知な者、愚かな者と共に滅び財宝を他人に遺さねばならないということ。」と語ります。すなわち、人によるものは、知恵や言葉、思想も含め、全てがその肉体とともに滅び、朽ちていくというのです。そして、私たちはそのようなものを頼りとして生きている場合が多いのです。しかし、主イエスは言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)そして、長老ペテロも「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」(1ペテ1:23)と語ります。キリストの十字架はあなたの、そして私の救いのための真実の出来事でした。そして、福音の言葉は、神という真実まことなる神を源泉とする、私たちを滅びることのない永遠の命に導く言葉なのです。パウロは言います。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」クリスチャンにとっての幸いとは、生きて真実の言葉を伝えることです。