2003年9月21日

「婚礼のただ中で」 ヨハネによる福音書 2:1〜11

 私たち青葉キリスト教会では、11月にAさんの結婚式が予定されています。本当に感謝なことであります。私もこれまで数多くの結婚式に出席させていただきましたが、その中でやはり一番気を遣うのが司会を務めさせていただいた時でした。

 披露宴全体の気配り目配りをしなくていけないというのは、大変なことです。ヨハネ2−1から「カナの婚礼」での奇跡が書かれていますが、この時、結婚式で様々な気配り目配りをしていたであろうマリアは、宴席の途中でなんと「ぶどう酒」がなくなってしまうという大ピンチを迎えたときに、ただ素直に「ぶどう酒がなくなりました。」とイエス様にすべてを打ち明けたのであります。自分の力でその難局を切り開こうとか、なんとかみんなをごまかそうなどとせず、神様に素直に告白したのであります。「ぶどう酒がなくなりました」と。

 神様は私たちに何を求めているのでしょう。
 ○社会の中で立派に働くこと
 ○聖書を読むこと
 ○祈ること
 ○礼拝に出席すること
 ○奉仕をすること
 ○献金をすること
 でありましょうか。いや、ただ神様を信じること、そして神様に委ねることです。そんな私たちを神様は私たちを受け入れて下さるのです。十字架で磔になった時、イエス様のとなりにいた強盗は、神様を受け入れて、「きょう、あなたはわたしと共にパラダイスにいるであろう」と言われました。

 聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、奉仕をすること、献金をすることなどは、救われた喜びの結果自然に私たちにわき上がってくるものなのであります。

 どんなものでも、神様は受け入れて下さるのです。しかし、こういった神様の愛はかえって男性にはわかりにくいことなのかもしれません。男性は社会でもまれればもまれるほど、ただ一方的に下さる愛がわからなくなってくる可能性があるのです。「そんなうまい話はありえない」「何か裏がありそうだ」と思ってしまうのです。女房と子供は楽しそうに通っているから、「ま、とにかくお願いします。でも私は結構です」ということが多いのであります。先日のメッセージにもありました、あのブドウ園のたとえのように、一日働いても、たとえ一時間でも、神様の愛は同じなのです。私たちは神様からみれば、誰でも100点満点なのであります。

 神様は私たちを、おしなべて愛して下さっています。どの人も神様にとっては100点満点なのです。「ぶどう酒がありません」そのひと言を私たちは心配することなく神様に、告白していこうではありませんか。

 「ぶどう酒がありません」と、神様に向かって告白していくとき、私たちの心が水で一杯に満たされて、馥郁たる香りを放つぶどう酒に変えられていくのであります。