2003年9月14日

「もう一つのプレゼント」ガラテヤ人への手紙5:13〜25

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」

 パウロの第1回、あるいは第2回目の伝道旅行の際伝えられた福音によりガラテヤ(祖先はケルト人とも言われ、現在のトルコ)の人々はキリストの救いを得、教会が設立されました。しかし、恵みによって与えられた救いが、ユダヤ教の伝統を重んじる人々によって脅かされ、迫害を受けたくないばかりに割礼を受けるというクリスチャンが出てきたことなどにより、教会に混乱が生じました。「物分りの悪い」とパウロが言うように、彼らは救いの原理と、与えられた新しい自由についてよく解っていなかったのです。ここでもパウロの神学の原点である「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる。(2:16)」救いの原理がガラテヤの人々に何とか理解されるようパウロは語るのです。

 パウロによれば、神が私達に与えてくださったプレゼントはキリストご自身とキリストによる赦しと救いです。そして、その赦しと救いにはもう一つのプレゼントが用意されていました。パウロは言います。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(5:1)」とパウロは激励します。もう一つのプレゼント、「自由」を新約聖書の中では二つの言葉で言い表しています。ルカによる福音書4章で、伝道を開始されたイエスさまが会堂でイザヤ書を手渡されておっしゃった言葉があります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ギリシャ語「アフェーシス」という自由を表す言葉がここでは「開放」という意味で使われています。また、マタイによる福音書26章で晩餐式の折、イエスさまは杯を取り、弟子達に向かって「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。「赦される」という言葉もまた「アフェーシス」が使われていますが、それらは、対象から開放される自由を表しています。

 しかし、もう一つの「自由」を意味する言葉が、本日の聖書の箇所と先ほどの箇所5章1節にも用いられています。ギリシャ語で「エリューセリア」と言うこの言葉は、状態を表します。赦され、開放された後の自由な状態を意味し、対象から逃れるというよりはむしろ、対象へ向かう自由を表しているのです。私たちにとっての自由とは、囚われの身からの開放という意味が強いと思われます。しかし、キリストにある自由とは、開放された身分にある者としての生き方とその姿勢を現します。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(5:16)パウロによれば、どんな苦しいこと、辛いことがあったとしても「霊の導き」すなわち、神との親しい関係を第一とするならば、困難から逃げる必要もなく、むしろ困難に向かって不安や心配事をありのままに抱えたままでも前進できるのです。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」ヨハネ8:31,32 霊における自由、それはイエス・キリストの贖いを信じることにより私たちに与えられる、神よりのプレゼントです。