2003年8月31日

「神を待ち望む人々への幸い」 マタイによる福音書20:1〜16

 「天の国は次のように例えられる。ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ言って見ると、何もしないで広場に立っている人々がいたので『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出かけて行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順々に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろ雇われた人たちが来て一ナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 初めに、本日の聖書箇所に出てくる雇い主を「神様」、労働者を、それぞれ「自分」にあてはめて見てください。人は悩み、悲しみ、苦しみ、淋しさの中にあるとき、そこにあるのは、ただ辛さと絶望だけであります。神様に祈っても何も聞いて下さらない。しかし、祈ることしか出来ない。まさに、いつ来るか分からない雇い主を待ち続ける労働者のようです。「もうすぐ五時だ、あと一時間で労働も終わりか?もうだめだな」、絶望の中で終わろうとしているとき、まさに奇跡が起こったのです。最後の最後まで、ただ雇われることだけを願って待ち続けた労働者に雇い主が声をかけられたのです。神様(雇い主)は、この労働者(ひたすら神を待ち続ける者)を見捨てられなかったのです。ですから、もう「だめだ」、と言って諦めたり、絶望したりしないで下さい。また、朝から労働にありつけた人たちは、雇い主に心から感謝をしていました。しかし後から来た人たちと同じ扱いをされたとき、それをねたみ、雇い主に不平を言ったのです。このように私たちはもう一方の労働者にもなりえるのです。このようなことは私たちの身の回りにたくさんあることです。もし同じような場面に遭遇したときには、本日の箇所を思い出して下さい。そして最初に声をかけられたときの感謝の気持ちを忘れないでいることが大切です。