2003年8月24日

「網を捨てて」 マタイによる福音書4:18〜22

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスさまの弟子となった12人のうち4人もの人が漁師でした。しかも、他の弟子達と同様、彼らも自分の生活を捨てて即座にイエスさまに従ったのです。ポール・トゥルニエはその著書「人生の四季」の中で、生きることは選ぶことであり、選ぶことは何かを断念することである、と言っています。シモンをはじめとする弟子達もある意味、人生の選択をし、網を捨て、日常の営みを断念し、イエスに従ったわけですが、それが神のご計画によるものであったとは知るよしもありませんでした。徴税人マタイにしても熱心党と言われたシモンにしても、それぞれがイエスさまに対する大きな現実的期待があったに違いありません。しかし、彼らの期待とは裏腹にイエスさまの向かわれた道は、革命によるイスラエルの復興どころか、十字架の犠牲への道でした。「あなたのためなら命さえも捨てます。」と宣言したペテロでさえ、イエスに従うことができず、イエスを否み、イエスから離れ去ってしまいました。人間自身を起源とした信仰は危ういものです。どんなにその信仰が強くても、その起源が人間の意志に依存している以上、状況に左右されてしまうものです。宗教改革者ルターは言いました。「人は信仰という一つの思想すら自分で作り出して、それが正しい信仰だと思う。しかし、真の信仰とはそうではない。信仰とは私達の中における神の業である。」

 使徒パウロはそのことをこう表現しました。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)」すなわち、主なる神さまは私たちの全ての営みを支配しておられ、どのような出来事の中にも神の業が現れているということで、神の御計画にぬかりはないということです。信仰とは、自分の選択ではなく、神の選びの中に生きるということです。パウロはイザヤ書を引用し、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。(1コリント2:9)」と、福音を通して約束された、救いの確かさと主の守りとを言い表しました。私たちの信仰の起源が福音に依存しているなら、その救いは揺らぐことはありません。「わたしについて来なさい。」とのイエスさまの言葉は、神に信頼し、何も心配しないでイエスに従って生きる決心を決して裏切らないイエスさまの約束を表していると言えます。漁師にとって「網を捨てる」ことは、自分の生活手段を断念することです。しかし、神さまは私たちが神の思いを選び、自分の思いを断念する時、捨てた以上のものを与え、生きる意味と目的を満たしてくださる真実なる方です。