2003年8月10日

「私が知っていること」 ヨハネによる福音書第9章24〜34節

 かつて、囲碁界の大天才と言われた藤沢秀行さんは、これまた将棋界の天才棋士だった芹沢博文さんに、「芹ちゃん、我々は果たして自分たちの生きる世界のことをどれだけわかっているだろうか。全部で100だとしたら、いかほどのものだろうか。」と言ったことがあったそうです。二人はお互いに伏せて紙に書き、見せ合うということをしました。先に見せた芹沢さんの紙には、「6か7」と書かれていました。将棋界の最高峰まで上り詰めた天才は、それでも6%か7%しか将棋のことをわかっていないと書いたのです。しかし、次に開けた藤沢さんの紙に書いてあったのは、「3か4」だったそうです。芹沢さんは、これを見て、自分はなんと思い上がっていたのだろう、と恥ずかしく思ったそうです。一つの道を極めたと思われるような人でも、その世界の3%から4%しかわかっていないと言うのです。私たちは、そして、人間という生き物はどうでしょうか。やはりこの地球や宇宙、そして自分たちの社会のことも、実は3%か4%しかわかっていないのではないかと思えるのです。にもかかわらず、案外、「自分たちはこんなに多くのことを知っているんだ」と思ってしまっているのではないでしょうか。

 知識というものは、ないよりはもちろんあった方がいい、わかっていることというのは、少ないよりも多い方がいいに決まっています。しかし、あることを「自分はわかっているんだ」と思い込む事が、実は最も危ういことなのではないかと思うのです。将棋の芹沢さんは、こんな言葉も残しています。「将棋がわかった、と思ったとき、私の将棋は止まった。」わかったと思った時、その先に進まなくなってしまうというのです。聖書においてもパウロが、コリントの信徒への手紙の中でこんなことを書いています。「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」まさに至言です。

 ヨハネの福音書9章で、ある盲人が、通りすがりのイエス様に癒される話があります。癒された盲人は、ファリサイ派のユダヤ人たちに尋問を受けます。ファリサイ派の人々が、イエス様のことを「あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と決め付けて尋ねます。ファリサイ派は知識や学識に富んだ人たちでしたが、それだけに「自分たちは神のことをわかっている」と思い込んでいた人たちでした。その人たちに対して、盲人だった男の答えは、「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」というものでした。彼は、知識や常識といったものではなく、ただの事実、自分が知っているただ一つの確かなこと、「自分はイエス様に変えられた」ということだけを言ったのです。これが大切なのではないでしょうか。私たちもそうです。イエス様を信じなければ見ることのできなかった世界、感じることのできなかった思いを、今見て、感じているのです。

 私たちが、誰かに福音を伝えようと思う時、聖書に関する細かな知識や教養もあったほうがいいでしょう。しかし、それは必ずしも必要なものではないのだということを思わされます。パウロもコリントの信徒に向けて「イエスとイエスの十字架だけを知っていればいい」と言っているように、難しい言葉を使わなくても、細かい知識はなくても、この盲人のように、そして、私たちが救われた時に感じたように、「私はイエスに目を開かれた。そのことだけは知っています。」と言えるならば、それは立派な証しになるのだと、改めて気付かされました。