2003年8月3日

「救いのおとずれ」 ルカによる福音書19:1〜10

 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 イエスさまは、「金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と前章で語られましたが、ある人との実際の出会いにより、その不可能なことが神の哀れみによって可能となることを身をもってお示しになりました。その人がザアカイ(純粋な人の意)でした。以前、ご紹介したことのある本で「ヘンリ・ナウエン最後の日記」というものがありました。その日記の中でナウエンは「フライイング・ロドレース」というサーカス団の空中ブランコに魅せられたことを語っています。それは、空中を飛ぶ人と、飛んで来るのを空中でつかまえる人との特別な関係のことです。「飛ぶ人は決して、つかまえてくれる人の手を自分からつかんではいけない。完全に信頼して待つ。」という法則は彼の信仰にインスピレーションを与えました。そして、彼が64歳で病により急逝する2ヶ月程前、サーカス団の団長ロドレーは次のような提案をしました。「君に、空中で手をつかまれる感覚を体験させてあげよう。」ナウエンはその申し出を興奮をもって受け入れ、空中ブランコに臨みます。「わたしは、つかまえる人の側のはしごを登った。ジョナサンが、つかまえる人の乗るブランコのバーにさかさまに吊り下がっていて、わたしの手首をつかむと、しばらくわたしを宙に吊り下げた。わたしは彼のさかさまになった顔を見上げ、彼にこうしてつかまえてもらったまま、揺れる、のはどんなだろう、と想像することができた。こんな体験ができて、私は満足した。」

 神を信じることの難しさを私たちは語ります。しかし、信仰を極めたのではないかと思えるナウエンさえ、自分の信仰に満足を覚えることはありませんでした。しかし、空中ブランコの法則を知った時、彼は神と人とを結ぶ豊な信仰の法則に出会ったのです。それは、救いは神の側にあり、受け手である神に向かって私たちは飛び出すだけで良いのだという原理でした。小さな子どもの時は親や大人に自分の体を吊り下げてもらい、揺られ、回されて、本当に楽しかったものです。その信頼感、吊り下がることの安心感は大人になってからは味わえないものです。自分の力で救われようとする私たちの信仰には平安はありません。そして、良い実もなかなか結ぶこともできません。しかし、受けとめてくださり、赦してくださる方を知った時、その御腕に身を任せる信仰を持つことができた時、人は本来の魂の平安と、恵みの信仰の実を結ぶことができるようになるはずです。ザアカイこそ、不可能と言われた「金持ちが天国に入る」という出来事に、イエスとの関わりをもって向かうことのできた人でした。彼は、いちじく桑の木から降りて来る間に、彼の手をつかみとってくださるイエスによって一瞬の内に本当に救われました。