2003年7月20日

「信仰によって」 へブル人への手紙11:1〜3

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

 柏木哲夫先生は「心をいやす55のメッセージ」の中で、「縦の平安、横の平安」という言葉に触れておられます。人生の中で起こるさまざまな不安について、私たちは多くの場合自分の力で不安から逃れようと試みます。仕事上の不安、人間関係における不安、経済的、精神的不安などなど、まずは身近な人たちに相談です。しかし、適切なアドバイスを受けたとしても不安は完全には消ないので、次はセカンドオピニオンです。よく体験することですが、人からアドバイスを受ければ受けるほど、色々な意見があり、かえって混乱させられてしまうことがあります。特に病気して、その見立てや治療法について判断する時、相談をできない程の難しい問題が起こった時などは切実です。もちろん人のアドバイスは大切なものですが、一時的には安心できても、長続きしなかったり、別の不安が起こったりしてしまします。これが、「横の平安」です。しかし、これに対して「縦の平安」というのがあります。人が本当に追い詰められ誰にも相談できず、孤独になった時に求めるものは、信仰があろうとなかろうと「縦の平安」ではないか、と先生はおっしゃいます。まさしく、人は人の力で及ばない出来事に出会った時、天を仰がずにはおれない生き物だと思います。できれば目に見える確かな答え、現実的な助けを私たちは願います。しかし、神はうわべの平安にではなく、私たち自身の内側の平安に関心を持っておられます。

 新聞のコラムに私たちがよくやってしまう「思い違い」と、その間違いを人に教えてあげることの難しさについて書かれていました。ある人が「破竹の勢い」という言葉を「家畜の勢い」と思い込んでいたというのです。思わずその情景を思い浮かべてしまいます。気持ちも分からなくはないのですが、その間違いを教えてあげるのには気を使うことでしょう。また、「一姫、二太郎、三なすび」と調子よく「一富士、二鷹、三なすび」と混ぜて覚えてしまった人のことや、上司で「日常茶飯事」を「日常ちゃわん事」と思い込んでる人に教えるタイミングを逸してしまっている人のことなどが面白おかしく載っていました。何はともあれ、言葉の間違いなら教えてあげれば済むことです。しかし、人間の内面的な問題についての思い違いに関しては、笑ってばかりもいられません。人は霊的存在であるにもかかわらず、私たちは神無しでも自分の力で生きられると思い込んでいるところがあるからです。様々な問題の多くは心と体と精神とで何とかすることができるかも知れません。しかし、深く見えない人間の内面の問題、霊的問題に、真の神を知ることと、その神を信じる信仰を持つこととは大切なことです。深い問題であればあるほど、目に見えない神はご自身の存在を明らかにして下さいます。だからこそ信仰の祈りに人知の及ばない平安(神共に在る安心)があるのです。イエスさまは言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14章)」 何があってもひるむことのない信仰は上より与えられ、それを取り去るものは何もないのです。