2003年7月13日

「約束のしるし」 創世記28:10〜19

 「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段(梯子)が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

 とある警察で刑事たちが「彼」の事例について語り合っていました。「彼」は身長が170cmほどあり、近所の人たちの評判も良く、子供たちにも好かれ、時には子供たちと遊んでくれるやさしい人です。頭も並外れて良く、将来が嘱望された人です。その彼がある日、とある電気量販店で小さな子供を誘拐し、こともあろうにその子をためらいもなく殺してしまったのです。刑事たちはこの事例に対し、「彼」について、「こんなひどい人間は極刑もやむをえない。」と口々に叫びました。誰もその判断に反対する者はありませんでした。その日、刑事部長はあまりに皆の意見が一致してしまったので、それ以上時間を割くことができませんでした。ところが、あくる日、刑事部長は刑事たちを再び集め、おもむろに一枚の「彼」の写真を示した後で皆の意見をもう一度聞きました。その写真を見た刑事たちは皆絶句し、昨日の意見はどこかに飛んで行きました。なぜなら、その写真に写った「彼」は今春まで小学生だった中学1年生の少年だったからです。

 ご存知のように先週痛ましさの極致とも言える事件の犯人が明らかにされました。伝道者の書に「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」とありますが、文明が進み、高度な文化の中に生きている私たちの社会に新しい痛みの種は絶えることがありません。この事件のみならず、全ての事件の背後にある闇を明らかにしていくことはこれからの社会のために、再発を防ぐために必要なことです。しかし、今、私たちの社会で見落とされていることをこれらの事件は浮き彫りにしているとも言えます。それは、人が「霊的」存在であることを知ることなしに人は人となりえないということです。そして、法律も届かないような所に及ぶ神の正しい裁きがあることを知ることです。教育により「知識」は増しました。そして、人間の「心」についてもずいぶん分かってきたと言われます。「倫理観、道徳観」を子供たちに身につけさせる努力も続けられています。しかし、最も大切なこと、すなわち、人が霊的(創造者によって創造された)存在であること、神に関する知識をこの世は知ろうとしません。箴言に「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」とあります。それは、個人的な創造主なる神との出会いが人生における最優先の課題であることを教えています。

 一つの国を成していくイスラエルの民は、信仰の人アブラハムに始まり、イサク、そしてヤコブとその信仰が継承されていきました。神の約束を受け継いだ三代目のヤコブは旅の途上にありました。兄をだまし、家督を手に入れたものの、故郷を逃れたヤコブは神の約束、祝福が自分の上にあるとは思えませんでした。彼は孤独でした。しかし、神は荒野で彼に現れてくださったのです。それは、彼にとって初めての神との個人的な出会いでした。そして、未来への生きた希望との出会いでした。嵐が去る時、雲の切れ間に太陽の光が差し、光の柱が出現すことがあります。それを「ヤコブの梯子」と呼びます。私たちがどうすることもできないような出来事に遭遇し、八方ふさがりに窮する時、人の手によらない光の道が開かれます。ヤコブは祖父や父から聞いて神の名は知っていました。でも彼は行き詰まりの時まで神と出会うことがなかったのです。その後、彼は「イスラエル」という名をいただき、神に生涯従って歩む者となりました。

 長崎の事件は悲惨な癒えることのない傷を被害者とその家族、そして私たちの心に刻みました。私たちはこの厚く覆った黒雲のような出来事と将来に、雲を裂いて放つ光を見ることができるのでしょうか?それは、私たちが個人的に創造主なる神のご存在を認めるかどうかにかかっていると私は思うのです。