2003年7月6日

「神の勇気」 フィリピ2:6〜9

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 バーナード・ウェーバー作、日野原重明訳の「勇気」という絵本が出版されました。日野原先生初の絵本の翻訳ということで興味があり、読んでみました。ウェーバーさんのほんわかとした絵といろんな形をした「勇気」が紹介されていました。大きなものから小さなもの、すごいのからいつでもやれる冒険まで、どれもが立派な「勇気」と書かれています。英語と対訳で説明文もつけられて、日野原先生の翻訳本らしい構成です。先生ご自身もあとがきで、与謝野晶子さんの勇気に関するエッセイなどに触れ、勇気とは冒険であり、人間の選択と自由意志の証しととらえ、夢を見るのも勇気と言っておられます。

 ウェーバーさんは言います。「いきなり補助輪なしでつっぱしるのも勇気」「ちっちゃい弟をだれにもいじめさせないのも勇気」「口げんかをしても、自分の方から仲直りするのも勇気」「しゃべらないと約束したとっておきの秘密をしゃべらないのも勇気」「悪いくせを直すのも勇気」等など。考えてみればみんなそれぞれに勇気がなければできないことが生活の中では沢山あるものです。そして、そのどれもが勇気と呼べるものです。聖書の中にも多くの勇者を見つけることができます。ノアは人が何と言おうと、神さまのおっしゃったことを信じ、箱舟を造りました。アブラハムも行き先を知らないで、冒険の旅に出ました。そして、ひとり子イサクを神に捧げようとしました。その孫、ヨセフは兄弟達に殺されそうになりながらも恨まず、家族を救います。巨人ゴリアテに立ち向かった少年ダビデの勇気、本当の神さまだけを礼拝したダニエル・・・と皆、勇気のある人々でした。そして、新約聖書に登場する人々も皆、勇気の人々でしたが、彼らは初めから勇気があった訳ではありませんでした。徴税人のマタイ、漁師のペトロ、ヨハネたちは自分の仕事を捨ててイエスさまに従う勇気を持っていましたが、イエスさまの十字架の前に弟子達みんな逃げ去りました。しかし、復活のイエスさまにより新たに彼らに与えられたのは、死をも恐れぬ勇気でした。その勇気はイエスさまから与えられたものです。

 喜びの書簡と言われるフィリピの信徒への手紙は、神の私たちに対する勇気を示しています。神は私たち人間の罪を赦すために、なりふりかまわず、ご自分を捨てて、被造物である人間の姿になられたとパウロは言います。大胆不敵な神の冒険は私たちの勇気の原点です。それは、自分を捨てて他者を愛するという最大の勇気を現しています。そして、十字架に向かわれたイエスさまの勇気は私たちの罪の贖いのためのものでした。私たちも勇気をもって人を愛する冒険に出ていきたいものです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)