2003年6月29日

「主に望みをおく人は」 イザヤ書40:27〜31

 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい。疲れた者に力を与え勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

人生に苦難、試練や苦労はつきものですが、聖書は苦難の始まりについて語ります。それは、アダムとエバの罪(神への反抗)に遡ります。罪を犯したエバに神は言われました。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」また、アダムに向かって「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

 その時以来、私たち人類は苦難と共に生きることになりました。しかし、苦難は神との接点ともなるのです。平安な時は切なる祈り、すなわち切なる求めは生まれませんが、苦難は深く真剣な祈りを私たちにもたらします。また、苦難は私たちに悔い改めの心を導きます。主の前にへりくだった心を与えてくれます。そして、苦難は神に対する感謝を思い出させてくれます。このように苦難を通して私たちは神に対する姿勢を学ぶのです。しかし、恨みと怒り、すなわち水平思考で苦難という出来事を捕らえてしまうと、神の恵みを取り落としてしまいます。恵みの神はそれでも理由の分からない苦難に苦しむ人々に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。」と呼びかけて下さいます。それに対し、信仰と祈りによって苦難を捕らえる、すなわち垂直思考の人は、イエスさまがそうであったように天の父を見上げ、主のみ旨を求め、主の導きに委ねるのです。

 苦難には主のみ旨と御計画があります。そして、苦難は人生の向かい風のようなものです。しかし、大空を飛ぶ凧は向かい風でなければ決して空に昇って行かないのです。恨みと怒りとして「苦難」を捕らえたイスラエルの民は神への反逆と背信、偶像礼拝、王国分裂へと進んで行きました。しかし、イザヤを通して語られた神はそのような彼らに対し、救い主の到来の希望を与えられました。それこそが逆風を恵みとされる神の新しい法則でした。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」それは、苦難の中にあったイスラエル人に大いなる力を与え、今日の私たちには神の恵みの福音による救いの知らせを告げているのです。凧の糸、すなわち信仰を強くし、イエスさまにしっかりとつながり、風を読み、逆風を捕らえ、苦難の世を歩んで参りたいものです。ペテロは言います。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」