2003年6月22日

「忘れられる神」 ルカによる福音書12:4〜7

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 1999年4月20日、アメリカ・コロラド州、コロンバイン高校で起きた銃乱射事件(別名、トレンチコートマフィア事件)は全米に衝撃を与えました。二人の生徒が学校に乗り込み銃を乱射、12名の生徒と1名の教師を射殺した後彼らも自殺するという悲惨な事件でした。お昼時、乱入した生徒は、ちょうど昼食をとっていた女子生徒、レイチェル・スコットさんを銃撃し、そして銃口を彼女に向けて聞いたのです。「こんな目に遭ってもお前は神を信じるか?」クリスチャンだった彼女は答えました。「はい!」彼は「なら、神の所へ行け。」と言って、迷わず引き金を引きました。そして、次に図書館で祈っていた女子生徒の頭に銃を突きつけ、聞きました。「お前は神を信じるか?」彼女キャシー・バーノルも答えました。「はい!」彼は「どうしてなんだ?」と言い、銃弾が放たれたそうです。その事件に遭遇した同級生たちは彼女たちの信仰に動かされ、「リバイバルジェネレーションズ」というリバイバル運動を全米50州に渡って展開しました。その出来事がきっかけでアメリカにおける銃規制の法整備が進められていきました。この恐ろしい出来事の中に「暴力」による自己表現に走らざるを得ない人間の弱さと恐れを見ることができます。その31年前の4月4日、自由公民権運動に「非暴力、無抵抗」で挑んだM.L.キング牧師が凶弾に倒れました。彼がその運動に際し、影響を受けたと言われるガンジー元インド首相は言いました。「我々は一切、抵抗しない。時に、彼らは私たちを殺すことがあるかも知れない。しかし、彼らは死体は手に出来ても、服従は手にできない。」人の怒りは神の存在を無視し神を忘れるところに発生するものです。そして、怒りは神を知らず、知っていても忘れ去ることによって始まり、その怒りは暴力へと形を変えていきます。

 イエスさまは福音を伝えることにおいて恐れる必要のないことを語られました。人の偽善(自分は存在と行いにおいて神の前に正しいと言い張る罪)は、神の義(神の恵みの福音を信じることによって与えられる救い)の前に苛立ち怒るのです。自分と自分の行い、自分の考えが神より先に立てないからです。しかし、実はそんな小さな自分の正義にしかこだわれないような弱い人間が、すずめ一羽以上に神に愛されていることを主イエスは教えて下さるのです。「自分が創造主からこよなく愛されている。」ことを知らずに、そして、知っていても認めず忘れて生きること、それ以上に悲しいことはありません。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 (箴言1:7)」畏れるべき方をいつも心の中心にして生きる時、どんな出来事の中にあっても私たちは動揺する必要はありません。そして、「暴力の連鎖」を断ち切ることができるのはキング牧師が語ったように「神の愛」による方法だけだと私は信じます。