2003年6月15日

「父親の信仰」 マルコによる福音書9章14節〜29節

 ある父親が、霊に取り付かれた子供を何とか治してもらおうと、イエスさまのところにやって来ました。我が子の看病でこの父親も疲れきっており、わらをもすがる思いであったに違いありません。イエスさまはそこにはいらっしゃらなかったけれども、弟子達に癒して下さいとお願いしました。弟子達はこの悪霊を追い出そうと試みましたが、出来なかった。ちょうどそこにイエスさまたちが山から降りてこられました。父親は、「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」と願います。するとイエスさまは「『できれば』というか。」と、父親の言い方をたしなめられました。しかし、弟子達に癒しをお願いしたけれども出来なかった。この弟子達の先生であるイエスさまにお願いしても無理かもしれない。そういう思いが、「おできになるなら」という言葉となったのではないでしょうか。続いて「信じる者には何でもできる」とイエスさまはおっしゃいました。イエスさまは、あなた自身が神を信じ願い求めれば祈りは聞かれるのだ、そうおっしゃっているのです。「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」と言われたイエスさまに対して、父親はどう答えたでしょうか。ふつうに考えたら、「どうもすみません。中途半端な信仰をお許しください。あなたを信じます。信じますから、子供を癒して下さい。」そう答えると思いませんか。しかしこの父親は「信じます。信仰のない私をお助けください」と答えたのです。「信じます」といいながら「信仰のない私・・」と逆のことを言っているのです。弱い存在、信じきれない私ですが、その罪を背負ったままでイエスさまに全てを委ねていくしかない、このような私を助けてください。この父親はそのような思いで、「信じます。信仰のない私をお助けください」というのです。子供が助かるためには、まず自分が悔い改めて神さまに全てを委ねていく以外ない、そのことがわかったのです。今、私達夫婦の祈りの課題は、我が家の子供達3人が神さまを信じて救われることです。しかし子供達に口で言って神様のことを理解させようなどと思うのは傲慢でしかありません。子供達が救われますようにと祈っていくことは大切ですが、先ず、私達の信仰を整えて下さいという祈りが大切だと聖書から教えられました。

 「信じる者は何でもできる」それを「信じます」と告白した父親の子供は癒されました。父親の祈りが聞かれました。しかし、自分の思い通りにいつも祈りが聞かれるでしょうか。とても苦しい病気を患っている。何故私だけが、何故私の家族だけがと思うことがあります。祈っても神さまは聞いてくださらないではないか、と思ってしまうことがあります。パウロもそうでした。病から助けてほしいと何度も祈りました。「それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。」(第2コリント12:7〜) 神さまのご計画は、人の知恵では測り知ることのできないものです。私がこうしてほしいと願うことが叶えられないとしても、神さまのご計画の中で、神さまは最善の道を用意して下さっていることを信じる者となりたいと思います。そして苦しい中にあってもそれに耐える力を神さまは与えてくださいます。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第1コリント10:13)神さまはわたしたちの祈りを聞いて下さると約束して下さっています。この父親のように全てを主に委ね、「信じます。信仰のない私をお助けください」という信仰告白をして日々変えられていく者になりたいと思います。