2003年6月1日

「キリスト教のゴリヤク」 コリント人への手紙一 1章18節

“十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。”

 世の中にはいろいろな宗教団体があり、中には金稼ぎ集団ではないかと思われるような団体もあります。病気などの体と心の問題、そして、終末(世の終わり)のことをテーマにして人々の心を揺さぶるのです。なぜ、そのような団体がいくつも現れてくるのでしょうか。また、人がそれについていくのでしょうか。それは死が恐ろしいからではないかと思います。世界の歴史を見てみると過去には多くの英雄がいました。富と力を蓄え、建造物や美女を手に入れます。しかし、その後は、死が恐ろしくなり、富と権力を利用して不死の薬を作らせたり死後の自分を守ろうとします。ピラミッドや世界中の大きな多くの墓にそれを見ることができます。あれほど命知らずに戦い、富があり、力があり、栄華を誇った英雄が最後にたどり着く所は死への恐怖であります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26)

 では、なぜ死が怖いのでしょうか。それは死後の約束がないことです。生きているときは何をやるにしてもある程度の見通しはつきます。しかし、死んだ後のことは分からないのです。だから功徳を積みなさいとか、高い壺を買いなさいとか、多額の寄付をしなさいとかいうことになるのでしょう。それはある意味わかりやすいかも知れません。しかし、聖書は「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)このように復活の信仰が与えられています。しかし、復活と言われてもあまりにも荒唐無稽で信じられないとおっしゃるかもしれません。皆さんは星野富弘さんをご存じだと思います。中学校の体育の教師として赴任して授業で頸椎を痛め、体のほとんどの機能を使えなくなってしまいました。まさに人間としては死んだにも等しい状態でした。しかし、神様を信じクリスチャンとなって、口に筆をくわえ、みなさんが良くご存知のような素晴らしい詩画集をたくさん作ったのです。

 まさに死んだ状態のものがよみがえった証であります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(第1コリント1:18)たとえ私たちは全世界を手に入れても、ただ空しく死んでいくだけでは、不安は大きくふくらんでしまいます。

 しかし、私たちには復活の信仰が与えられているのです。これは、誰でも無条件にしかも、無料で手に入れることができるのです。これほどのゴリヤクがあるでしょうか。復活のキリストを信じ、ただ空しく滅びないで、喜んで天国の門にいたるまで歩み続けて行きましょう。「私は復活であり、命である」私たちには天国が約束されているのであります。