2003年5月18日

「ものはためし」 フィリピの信徒への手紙4章10節〜14

 “さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。”ヨーロッパで最初のキリスト者の群れができたフィリピ、マケドニアの地方都市であるこの町にパウロが伝道したのは聖霊に導かれてのことでした。アジアに向けて福音の広がりを計画していた彼はイエスの御霊によりそれを禁じられ、幻によってマケドニアに向かうことを示されたのです。そして、そこで初めて福音に触れたのは異邦人の女性達でした。その中のテアテラ市の紫布の商人、リディアとその家族とはキリストを救い主と信じ、バプテスマを受け、ヨーロッパでの宣教の業が始まったのです。その時、パウロ一行が事件に巻き込まれ投獄されるということが起こるのですが、神はその出来事を通して牢獄の看守を救いに導き、その家族もその夜バプテスマを受けることができたのです。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族の救われます。」という確信と励ましの言葉は今日のクリスチャンの、家族が救われるための希望の言葉として生き続けています。喜びの書簡と言われるフィリピの信徒への手紙は、そうしたパウロとフィリピの信徒たちとの信仰にある心の交流と具体的な援助の業が福音宣教のための大切なものであることを教えています。

 コリント第二の手紙によれば、マケドニアにある諸教会すなわちピリピ、テサロニケ、べレヤなどの教会が、経済的な試練の中にあるエルサレムの信徒たちへの援助金を送った出来事を知ることができます。教会ではお金のこと、献金のことについて語ることはタブーのようなところがあるかもしれません。信仰は霊的問題であり、お金の問題ではないと。しかし、信仰の具体的な現れが私たちの捧げものにあり、教会の社会でのあり方、捧げられたものの用い方が信仰の現れであることも事実です。大切なのは人の業ではなく、神の業がそこに現れることです。ピリピをはじめとするマケドニアにある諸教会は、彼ら自身飢饉に見舞われ自分たちの生活さえままならなかったにもかかわらず、彼らはエルサレムにいるイスラエル人クリスチャンの窮乏を救うために献金を送ったのでした。パウロは捧げものを捧げる時「力に応じて、また力以上に、自分から進んで、まず主に自分自身を献げ、純粋な愛をもって」(2コリント8章)捧げることの大切さをマケドニアにあるクリスチャンの証しを通して語っています。パウロの言うとおり、ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに捧げられる捧げものは私たちをあらゆる点で豊かにし、惜しみなく与える心を育み、神への感謝の心を生み出すばかりでなく、どのような境遇にあっても満ち足りることを得る秘訣を与えてくれるのです。その秘訣こそが神にある平安なのだと思うのです。ものはためし、あなたの持てるものを信仰により恵みによって捧げる所で主が何をしてくださるか味わってみてはどうでしょうか?主は人知を超えた平安をあなたに与えて下さると信じます。