2003年5月11日

「母の決心」サムエル記上 1:21〜28

 “ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。”

 「その名は神」という意味のサムエルという名をいただたイスラエルの歴史の中でも重要な役割を果たした預言者は、その母ハンナの祈りによって注ぎ出されたような人でした。夫エルカナにはもう一人の妻、ペ二ナがあり、彼女は子どものできないハンナを思い悩ませ苦しめました。世継ができないということは、今の世でさえも女性にとっては苦しいことです。ハンナは神に命がけで、心を注ぎだしてその願いと苦しみを神の前に訴えました。「主はハンナの胎を閉ざしておられた」とあるとおり、その苦痛の出来事を通して主はハンナに祈りと誓いとを求められました。

 ハンナが祈り終えると、彼女の表情は以前とは異なっていました。祈りにはよく、「請求書的」な祈りと「領収書的」な祈りがあると言いますが、ハンナは祈るだけでなく、その祈りが聞き入れられたと信じ、信じて与えられる子とその子の一生を主にささげることを誓ったのです。

 先週のCBSドキュメントという番組で、重度自閉症児に対する効果的な治療法を実践しているインドのお母さんが紹介されていました。現在主流とされる治療法ではなく、むしろ逆行するような彼女の治療法は、息子のキト君(現在14歳)をコミュニケートできる個性豊かな人に変えてしまいました。母ソマさんは何年もの間キト君を朝起きてから晩寝るまでさまざまな刺激によって教育、訓練を行って来たと言います。番組は、そうしたお母さんの息子に対する信念と決意が奇跡を起こし、息子の能力を信じ続け、知識という栄養を与え続けた忍耐力が今日のキト君を作ったのだと言っていました。そのことは、重度自閉症児はコミュニケートできない、周りの状況を理解する能力がない、と思われていた概念を覆してしまったのです。インタビュアーの「もし、あなたの母親があなたを訓練してくれなかったらどうなっていたと思う?」との質問に、彼は「僕はおそらく植物状態になっていた。」と答えたのです。

 問題は与えられた子どもの情況そのものではなく、与えられた情況をどのように捕らえ、それに向かってどのような望みと決断で向かっていくかということです。乳離れしたばかりの幼子サムエルをハンナはその情を断ち切って、神に誓った通り神殿祭司の所に手放しささげました。ハンナの誓いは息子サムエルが自分の子どもという枠を超え、祭司、イスラエルの預言者、ダビデ王の発見者として神に用いられていく、神の救いのご計画に参与する、神の人へとつなげられていったのです。今日は母の日です。子どもにとって母の存在は偉大なものです。しかし、同時に母の目線がどこにあるかが子育ての中で問われるのも事実です。子ども達の存在感と将来に大きな影響を与えるからです。子ども達が神を信じ、従う者となるために、子ども達をささげていく決心や誓いが子育ての原点にあるのではないでしょうか。