2003年5月4日

「唯一の源」 ヨハネによる福音書15:4〜5

 “わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。”

 「神は、私たちを必要としておられない。」神を信じる者としてショッキングな言葉です。それは、言い方を変えれば、「神は、私たちに何も期待しておられない。」とも言えます。しかし、その意味するところは、神は全能で、何も不足はない方ということ、私たちに助けられる必要のない方ということです。神は私たちの神に対する行為を求めておられるのではなく、信頼関係を求めておられるのです。

 戒めや律法は私たちに神の期待に応えることを求めますが、神ご自身はそのような期待をしておられるのではないのです。ですから、本当の神を知った人は神の期待に応える必要はないのです。ギリシャのアテネで伝道していたパウロは町に偶像が多く立てられていることに気付き、人々に向かって言いました。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒17)

 神は私たちが神のために働くことを欲しておられるのではなく、私たち自身を欲しておられるのです。神と共にあることを求めておられるのです。なるほど、私たちが社会や教会の中で存在価値を問われるとするなら、それは自分の行い、「自分には何ができるか」「自分は何をしたか」にかかってくると思います。しかし、神の国における私たちの存在価値や理由は、「神と共にあるかどうか」ということに尽きます。H・ブラッカビーは「神を体験する」の中で、人生における重要な質問は、「これをすること、これを選ぶことは正しいことだろうか?」ではなく、「今、自分はイエスにつながっているだろうか?」だと言っています。「自分は正しいだろうか?」という間違った問いは、自分の存在そのものよりも、行いの良し悪しの判断で自分の価値を決めてしまいます。そこでは感謝よりも、強い不安が心を支配してしまいます。イエスさまにつながっていること、それは命の源泉につながっていること、実を結ぶ行いに私達を導くことです。イエスさまが言われました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7)イエスさまにつながっていなければ、神との安らぎの関係になければ、自分自身の本当の必要さえも分け知ることはできないのです。イエスさまこそ、私たちのすべての事柄の源となる方です。