2003年4月27日

「約束を待つ」使徒言行録 1:1〜11

 “イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」・・・こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」”

 ルカの手になる二つの書の内、福音書はイエスの到来とその働きを語り、使徒言行録は聖霊の働きとその時代を語っています。聖霊行伝とさえ言われるその記録は神による救いの業が聖霊により今日に至るまで滞ることなく続けられていることを物語っています。使徒パウロは“聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない”と、信仰告白は人の力によるのではなく、神の力によるものであることを記しています。死んだ者の初穂として蘇ってくださった主イエスの復活の出来事は、福音を聞くことにより見ないで信じる信仰の土台となりました。そして、その土台は架空の出来事、捏造された出来事によってではなく、事実に基づいた出来事によって支えられているのです。

 主イエスの昇天の出来事から始まる使徒言行録はもう一つの大切な神の配慮と救いの計画を教えています。ハイデルベルク信仰問答によれば、キリスト・イエスの昇天はわたしたちに三つの益をもたらすと回答しています。第一に、主が、天において、神のみ面の前に、われわれのとりなしをする者、となって下さることである、ということ。第二に、われわれは、主が、頭として、その枝であるわれわれを、ご自分のもとに引き上げて下さる、確かな担保として、われわれの肉を、天に持つことになる、ということ。そして、第三に、主は、み霊を、これと見合う担保として与え、そのみ霊の力によって、われわれは、キリストが神の右に座しておられる、あの上にあるものを求め、地にあるものを求めないようにして下さるのである、と言っています。すなわち、復活のイエスさまが昇天されたことにより、目に見える関係の中でしかイエスさまとつながることができなかった私たちが、その時以来、聖霊の注ぎにより心の内に生きて働いてくださるイエスさまとつながって生きることができる存在になったのです。ペテロは言います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(1ペテ1:8)そして今、私たちは彼らが見たのと同じ有様でおいでになるイエスさまを待望しつつ、聖霊と恵みの時代を生きるのです。