2003年4月20日

「愛の勝利」 1コリント13:12,13

 “わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。”

 クリスチャンにとってイースターは特別の日です。この日がなければクリスチャンの信仰も救いもありません。パウロは言います。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(1コリント15:12-19) 実にイエスさまの復活出来事の上にキリスト教の信仰は立たされているのです。そして、大切なことは、それが歴史的な事実であったということです。もし、イエスさまが復活なさらななったら、イエスさまの教えと預言とは空しく消え果たことでしょう。しかし、今日尚信仰が多くの人々によって継承されている事実もまたイエスさまの復活の事実を明らかにしているのではないでしょうか?

 イエスの死はローマの百人隊長や兵士たち、多くの人々によって確認されました。ある兵士がイエスが死んでいることを確認し、そのわき腹に槍を刺すと、そこから血と水が流れ出ました。また、イエスを有罪に導いた祭司長、ファリサイ派の人々はイエスの甦りを恐れ、イエスの墓の見張りまでさせました。そして、イエスさまが復活された後も彼らは兵士たちに金を与え、復活を否定するために、弟子たちが遺体を略奪したとのうわさを流したのです。しかし、イエスさまは人のどんな妨害や常識という理性を超えて、実際に復活し、婦人たちや弟子たちそして多くの人々の前に現れてくださいました。疑い深い弟子のトマスにも、イエスは現れ、その腕と脇の傷とをお見せになり、信じない者にならないで信じる者になりなさいとの言葉を与えられました。信仰は目を閉じて心を開くところから始まると言います。トマスは目を開き、心を閉じていたのです。初代教会への250年にも及ぶ迫害の歴史は、信徒を滅ぼすどころか、ローマの国教となっていった復活のイエスへの信仰の確かさを証明しています。

 パウロはコリントの信徒へ神の愛の不滅を語ります。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」その神の愛こそが主イエスを私たちの罪の購いのために十字架に向かわせてくださった力でありました。そして、イエスの愛は死に勝利し、信じる者たちに永遠の命の約束を与えてくださったのです。