2003年4月13日

「過去を見る」 ヨハネ福音書21:15〜19

 いつの世も世代間のギャップというのはあると思いますが、私も最近よく「近頃の若い者は」と思ってしまうことがあります。一部の若者たちの仕事に対する責任感の薄さや異性とのつき合い方などを見ていると、どうも「今がよければいいじゃないか」「今が楽しければいい」といった考え方が強くなってきているのではないかと思うのです。若者達に限らず、私達はともすると、「大切なのは」今「これから先が肝心」そう思いがちです。逆に言えば、「過ぎたことは過ぎたこと」「後ろを振り返ってもしょうがない」「前向きに行かなければ」そんなふうに考えます。しかし、本当にそれだけでいいのでしょうか。

 将棋界に羽生善治という天才棋士がいます。彼は対戦中、長考する時にどんなことを考えているのかと聞かれ、こう答えました。「長考の時は主にその局面に至るまでの指し手を何度も辿り直しているんです。」普通の棋士がある局面から先のこと先のことと考える時、羽生さんは今までの指し手、つまり過去のこと過去のことと考え続けているというのです。彼の信じられない程の強さの秘密はここにあるのだと思います。彼は、ここまで指してきた過去があっての「今」だということをしっかりと認識しているのです。

 私たちが生きて行く上でも同じです。「今を大切に」「前向きに生きる」そのためにはどうしても過去を見る必要があるのです。イエス様はガリラヤで宣教を始められた時、まず「悔い改めなさい」と言われました。「悔い改める」とは「過去を見る」ということです。あなたが犯してきた罪を思い起こし、悔いて改めなさいということです。ヨハネの福音書21章で復活されたイエス様は弟子達のもとへ現れ、ペトロに言いました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか」この言葉をイエス様は三度もペトロに問いかけました。二度目までは普通に「はい、主よわたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えましたが三度目に聞かれた時は少し違いました。「悲しくなった」と聖書には書かれていますが、ここでペトロは過去の自分の罪に直面させられたのです。彼は、イエス様が十字架に向かわれるとき、周りの群集たちから「あの男の弟子だった」と三度言われ、三度とも「違う」「あんな人は知らない」とイエス様を裏切ったことがあったのです。イエス様の三度の質問はその過去をまともにペトロに見させるものでした。ペトロが最後に言った「主よ、あなたは何もかもご存知です」というのは、イエス様を愛しているということだけでなく、自分の弱さも、自分のずるさも、自分の罪深さも、すべてをご存知です。という心からの告白でした。そしてペトロは救われ、神の器として用いられていきました。復活のイエス様は私達一人一人にも、ペトロにしたのと同じように日々語りかけてくださっているのではないでしょうか。「あなたはわたしを愛しているか」と言っておられるのです。

 私達一人一人は本当に弱い存在です。毎日お祈りをしていながらも毎日罪を犯してしまうような弱いものです。都合の悪いことは言いたくないし、隠したい、過去に何かの罪があってもできるなら知らんぷりして先のことだけを考えたいと思ってしまう者です。しかし、何もかもご存知の方がいらっしゃいます。私たちが罪を犯さずにはいられないということも全てご存知の方です。その方は全てをご存知であると同時にすべてを赦してくださる方です。復活されたその方は今も生き、私達に「過去を見なさい」と言います。あなたの罪のために犠牲の十字架にかかって下さった過去を、そしてあなたが今まで犯してきた罪という過去を怖がらずに見なさいと言われます。

 過去をつきつけられる、過去を思わされると言うのは、人によってはとても辛いことであるかも知れません。しかし、その過去があっての今、そして未来なのです。多くの喜び、感謝があり、多くの悩み、苦しみがあり、そしてたくさんの犯してきた罪があっての今なのです。神さまはそれら全てをはじめからご計画されていた方であり、それを知るものには全てを益としてくださる方です。『だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』(2コリント5:17)  

 イエス様が十字架で示してくださった「愛」という過去、それによって赦される自分の犯した罪と言う過去にしっかりと向き合ったものは、そこから全く新しい、豊かに満たされた次の一歩を踏み出すことが出来る。聖書はそう語っています。