2003年4月6日

「幸いなる者」 マタイ福音書5:1〜12

 “イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。”つとに有名なキリスト・イエスの教えは「幸いなり」という言葉で始まりました。マカリオン(幸い)というこのギリシャ語はもともとはギリシャ神話に出てくる神々の天上における至福の生活を言い表していたと言います。地上において、苦労して生きる私たち人間に不釣合いなこの祝福と讃美の言葉がイエスさまの口から語られたのです。そして、あろうことか、その幸いがどんな人々に対して語られたかというと、貧しい、悲しんでいる、柔和な、義に飢え乾く、憐れみ深い、心の清い、そして、平和を実現し、義のために迫害される人々に向けて語られたのです。それらの人々は当時のイスラエルの人々、特に指導者や権力者から言えば、「幸い」という言葉が最も似合わない人々でした。しかし、イエスはそのような人々に向かって「おめでとう、本当に幸せな人たち」と語りかけられたのです。

 イエスの言葉を聞こうと集まった弟子達、そして群集は皆権力も地位もない無力な民衆でした。宗教的、政治的にも素人と言える普通の人々に向けてイエスは語られました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」そうです、イエスは「平和を願う人々、争いごとを嫌う人々」は幸いである、とおっしゃったのではなく、平和を実現する人々は幸いなりとおっしゃったのです。今、わたしたちの世界では人の罪の最たる結果である戦争という名の暴力が正義の名のもとにまかり通っています。いつも言われるように、戦争の一番の被害者であり、犠牲者は民衆です。権力者は戦争が始まると一番安全な所に逃れることができますが、民衆はそうはいきません。しかし、イエスさまはそんな弱い立場の人間を平和のための兵士とされるというのです。それは、力によるのではなく、和解の言葉、福音によるのです。人の死は尊い出来事です。しかし、戦争による死を見るとき、私達は人間のもたらす理不尽な死の背後に人間の深い罪を感じてなりません。パウロはローマ書6章で言いました。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」人が、本当に神とつながっていない所に罪があります。目に見えない戦場があります。人が神とつながっていないところに、そこが家庭であれ夫婦の間であれ親子の間であれ、戦場が出現します。イエスさまは申されました「平和を実現する人々は幸いなり」と。

 まず、イエスさまが私たちに求められていることは、私たち一人ひとりが、神との和解を実現すること、イエスにあって救われ、神との平和を得ることです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)武力によってもたらされる平和には神よりの「幸い」はありません。今日こそ私達民衆に向かってイエスさまは、信仰に立って平和を実現するために出ていくようにと語っておられます。