2003年3月30日

「見えるようになれ」 ルカ福音書18:31〜43

 イエスさまはエルサレムに上って行かれるとき、弟子達に人の子としてのイエスの受難と復活とを語られました。しかし、その時彼らの心の目は見えず、イエスさまの言葉の意味がまったくわかりませんでした。そして、途中エリコの町に近づかれたとき、一人の盲人がイエスと出会います。エルサレム巡礼の最後の宿場町でこの盲人は物乞いをして生計を立てていたのでしょう。彼はきっと噂でイエスさまの働きを伝え聞いていたに違いありませんし、イエスさまが特別な方だと感じていたに違いありません。だからこそ、人々に制止されても「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と助けを求めるために何度も何度も叫んだのです。

 イエスさまは「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。」(5:31)と言われました。多くの人が自分自身の魂の状態について気付かないで、自覚しないで生きていることを指摘されたのだと思います。とりあえず経済的にも、健康にも恵まれ、とりたてて大きな問題もなく暮らしていれば幸せで、特に悪いこともしないで、人に親切にし、良い行いをしてさえいれば、宗教を信じていなくても決して悪い結末にはならないと漠然と信じているのが私達日本人ではないでしょうか?もちろん皆が皆そうではありませんが。ある神学者は、この世には二種類の人がいると分析しました。一つは、「健康な人」別な言い方では一度生まれの人。もう一つは、「病んでいる人」この人は二度生まれの人、すなわち回心を経験した人です。宗教を自分の人生の道具とする人や自然を崇拝する人は回心の必要はありません。自分を省みる必要はないからです。それよりも大切なのは、自分自身に対して正しく生き、現実の生活を幸せに問題なく送るかということです。これに対し、宗教を自身の人生の土台と捕らえる人は自分の魂の状況を省みないではいられません。しかし、不思議なことに宗教を信じていると自認している人たちの中に二度生まれを経験したことのない人、あるいは二度生まれを経験していても「自分は健康だ」と誤認して生きている人がいます。私たちの身の周りでは、多くの場合、「健康な人」が問題を起こすことが多いです。また、国家間の戦争の多くも医者を必要としない「健康な人」によって引き起こされて来ました。

 イエスは盲人にお尋ねになりました。「何をしてほしいのか。」すると盲人は言いました。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」「健康な人」は神の「何をしてほしいのか。」という問いかけが聞こえません。いや、聞く必要がないのです。自分の考えが一番だからです。この世の営みの中で味わう、自分の力ではどうすることも出来ないような出来事の中に神の私達への問いかけが存在します。使徒パウロは「自然(生まれながら)の人は神の霊に属すること事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(2コリ1:14)と言いました。「見えるようになれ」との言葉で、盲人が癒されたのは目だけではありませんでした。最後の望みをかけた彼の信仰は彼に霊の目を与え、この世の習わしに従うのではなく、イエスに従う者に彼は変えられたのです。