2003年3月23日

「砕かれて」 コリントの信徒への手紙第二 2:14〜17

 預言者イザヤは「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。”(57:15)と、聖なる神の住まいが打ち砕かれ、へりくだった人の霊の内にあると語ります。コリントに生まれた教会はパウロが去った後、分派問題,近親相姦,不品行,結婚の是非,偶像に供えた肉の問題,異言問題,復活否定論などで、混乱と不信に陥っていったのです。そこには信仰の一致も祈りの一致もありませんでした。そこで、パウロは数回に渡ってコリントの信徒に宛てて手紙を書いたのです。

 私たちの身の周りでもさまざまな問題が起きます。そして、それは昔コリントの教会で起きたことと同じくらい深刻な場合も多いと思います。しかし、全ての問題には神さまからのお取り扱いと導き、そして目的があります。それは、信じる全ての者たちが魂の勝利を得、キリストの香りを放っ者と変えられて行く事です。マルコによる福音書14章によれば、イエスさまが十字架を前にしてベタニヤ村のシモンの家で食事を摂られた時、一人の女がナルドの香油の入った石膏の壺を持参したと記録されています。現在のお金で数百万円もするという高価な香油を女は壺を壊し、惜しげもなくイエスさまに注いだというのです。しかし、周りの人たちは女のその行為を無駄遣いだと厳しくとがめたのです。イエスさまはそれに対し、その女はできるかぎりのことをしたと褒め、十字架の死とその葬りの準備をしてくれたと賞賛されたのです。

 おおよそ、神はこの世の常識的価値に重きを置く人よりも、神の前にへりくだり、神の御旨を求める人を賞賛されます。香油を注がれたイエスさまは、その後、弟子達との最後の食事、ユダに裏切られ、祭司長や律法学者達に捕らえられ、裁判にかけられ十字架に向かわれるという出来事に巻き込まれていきます。しかし、イエスさまの行かれる所、どこにおいてもあの女が注いだ香しい香りがその場を包んでいたに違いありません。その香りは神の犠牲と赦しの香り、神の和解の香りだったと私は思うのです。一人の女のしたことは小さなことだったかもしれませんが、女は自分の全財産であったかもしれない香油の入った壺を壊してそれをイエスに捧げたのです。第二コリントの今日の箇所は、パウロがクリスチャンの恵みについて語った所です。それによれば、神はクリスチャンという器を通してキリストを知る知識の香りを漂わせておられると言うのです。それは、行いによる証でも、正しい行為による証でもなく、キリストゆえにへりくだり、心打ち砕かれた存在を通して、神ご自身が証してくださるということです。どんなに素晴らしい香りを放つ香水もビンの中に封じられていれば香ることはありません。しかし、一旦器が壊され空気に触れると、たとえ少量でもその香りは部屋中に満ちるのです。

 私たちクリスチャンも、良い行いや素晴らしい働きによって生きておられる主を証するのはもちろんのことですが、何よりも先に、キリスト・イエスにあって自分中心の思い、自分勝手な計画が砕かれてこそ神ご自身が香って下さるのです。「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。」(詩篇147:3)