2003年3月16日

「命のプレゼント」 ヨハネの手紙第一 4:7〜10

 “愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。”

 天地をお造りになった神さまは、目に見えるものばかりを追い求める性質を持った私たち人間のために、身を低くして愛の形をもって現れてくださいました。幸せで平和の中にいるとき、私達は神さまを必要だとは思いません。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とパウロがローマ書で言うように、私たちの魂は神の愛の必要を知っています。トルストイが、「冬が終われば春が来る。春の後には夏が来て、そして秋となる。しかし、最もはっきりしているのは私達には死が必ず訪れるということだ。」と言いました。死は、私達が永遠の存在ではなく、救われるべき存在であり、永遠の命を必要としている存在であることを教えてくれます。神が独り子を私たちのためにお遣わしになったのは、私達が生きるようになるためだとヨハネは言います。人はその創り主なる神の無償の愛を受けることのみによって救われ、本当の意味で生きるようになるのです。そして、それは私たちの行いによって得られるものではなく、神からの恵みを受けることによって得られるものなのです。

 藤木正三著「神の風景」の中で、“人生の音”というエッセイがあります。「だらしない、乱れ怠けた生き方をするよりも、勤勉に道徳的に生きる方がよいことは言うまでもありません。そして、常に学んで怠らず、希望を失わず、新鮮な感動をもち続けて生きるなら、もはや言うことはありません。しかし、そういう万事に良い生き方をすれば人生を汲み尽くすことができるかといえば、そうではないのです。そういう生き方も、人生を汲むにはざるみたいなもので、ざあざあと人生はそれからもれてゆくのです。その人生の音が聞こえますか?」簡単に言えば、ざるでは自分自身の命を救えない。私たちの力や努力によっては救えないのです。ただ、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになったという福音を信じることによって私たちは救われると聖書は語るのです。最高のプレゼントというのは、それを受けるに値しない者が、与える者の最も大切なものを無条件に受けられることです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」キリスト・イエスの命こそが、私たちに最も必要な神からのプレゼントなのです。