2003年2月23日

「愛をもって」 エペソ人への手紙3:14〜21

 人間関係に危機が訪れるとき、そのときは大抵「正しいこと」が関係していることが多いと思います。何故か正しい人々の集まりの方が争い事が多く起こることが多いのです。私がクリスチャンになる前、聖書の中のローマ人への手紙3章「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」という箇所を読んだとき、私はそれに不快感を覚えました。その頃の私はヒューマニスト(もちろん深い意味でではありませんが)人道主義者で、人間は素晴らしい存在で、自分はともあれ何処かに必ず清く正しく罪のない人類を代表するような人が存在すると信じていました。「正しい者は一人もいない」と言われると人類全体、ひいては自分も罪人だと言われているようで不快に感じたのだと思います。

 しかし、クリスチャンになってつくづく思わされるのは、パウロが詩篇14篇から引用した言葉が真実であるということです。聖書の言葉は私たちの隠された罪を明らかにします。たとえば私が物分りのいいような顔をしていたとしても、私はいつも「自分だけは正しい」と心の中で信じているところがあり、自分中心に物事を考えるところが確かにあります。そして、私は自分が失敗しても中々素直に謝れませんし、人が失敗したらうわべでは許しても心の奥底では「許さない」自分が居るのです。また、失敗を失敗として認めず、責任転嫁をして他人のせいにして安心しようとするところもあります。つまり、私はいつも自分中心で自分は立派な人でいたいのです。

 先日もご紹介した柏木哲夫先生の最新刊の中で「正しいことは、ひかえめに」という章があります。そのタイトルを端的に表す祝婚歌という詩が紹介されています。

 「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい、立派すぎないほうがいい。立派すぎることは長持ちしないことだと気付いているほうがいい。完璧をめざさないほうがいい、完璧なんて不自然なことだとうそぶいているほうがいい。二人のうちどちらかがふざけているほうがいい。ずっこけているほうがいい。互いに非難することがあっても非難できる資格が自分にあったかどうかあとで疑わしくなるほうがいい。」「正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい。正しいことを言うときは、相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい。立派でありたいとか、正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わずゆったりゆたかに光を浴びているほうがいい。健康で風に吹かれながら、生きていることのなつかしさにふと胸が熱くなるそんな日があってもいい。そして、なぜ胸が熱くなるのか黙っていても二人にはわかるのであってほしい。」(吉野弘) つまるところ、私たちの平和とは私たち一人ひとりが「正しくある」ことよりも「罪ある者」であることを自覚することにあるようです。平和とは、イエスさまを信じ心の中に受け入れ、神の愛を知ることによってもたらされる恵みの関係です。