2003年2月16日

「流れのほとりに」   エペソ人への手紙3:14〜21

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

 最近、プチ整形というものがブームなのだそうです。外見的に自分の嫌いな部分を少しだけ整形手術によって見栄えよくするものだそうです。先日、何気なくつけたテレビ番組で、リハビリメイキャップというものを紹介していました。顔に大やけどを負った女性が、特殊なメイキャップ法によって痛んだ部分を補い、自然に近い顔と表情に生まれ変わっていました。完全に元通りとはなりませんが、何よりも彼女自身が笑顔を取り戻し、事故から10年来会っていなかった友人を訪ねる勇気が与えられたのです。そして、自分でもそのメイキャップを習得し、積極的に外に出かけられるようになったのです。また、癌により眼球を摘出し、顔にひどい傷を負った年配のご婦人は、それゆえに家に引きこもるようになってしまいました。しかし、日本ではまだよく知られていないエピテーゼ(人工的に、人工の素材を使って人体の欠けた部分を模造する)という技術によって、無くなった顔の一部を再生したのです。その施術を受けてから彼女は元気になり、友達とも元通りお付き合いができるようになり、カラオケにも行けるようになったのです。そして、もう一人の若い女性も事故で小指の先を切断してしまいました。彼女も指のことで人知れず悩んでいたのです。しかし、エピテーゼで無くなった小指を作ってもらい、それを装着すると、自分の指が生えてきたような出来栄えで、彼女は元のように自然に振舞うことができるようになったのです。これらの技術は整形とは言えませんが、女性のみならず、体に傷を負った人たちや、外見的に障害を負った人たちにとって朗報ということができるでしょう。また、整形手術については別の議論があるかと思いますが、それを受けたいと願っている人たちにもさまざまな深い事情があるのだと思います。

 先週の古川先生をお迎えしての礼拝とセミナーを通して、私たちは互いに神によって創造され、愛されている存在であることを知りました。「交流分析」セミナーでは、その目標が自分自身のことを知り、セルフコントロールによって自主性を養い、他者との交わりを深めていくことにあることを学びました。信仰的に言えば、それは、神のご計画、創造の業に参加することです。神の計画とは自分との平和、神との平和、他者との平和を実現していくことでもあり、それは「教会」の役割でもあるということです。私達は互いに色々な意味で傷つきやすい存在です。人間関係の中で傷つき、間違った自己像を抱くことによって悩み、人の評価で人生が変わってしまうこともあります。そして、外見的に自分が他者と比べて劣っていると認めて生きる時、人は自分自身を生きることができなくなってしまうのだと思います。今日の聖書の箇所でパウロは、心の内にキリストを住まわせることによって愛を知り、愛に根ざし、愛に立って生きるようにと祈りをもって私たちを励ましています。すなわち、内なる大規模な手術が私たちには必要であると言っているのだと思います。私たちは知らず知らずのうちに、自分の内に他人の評価を住まわせ、間違った自己像を住まわせてしまっています。しかし、私たちが、キリストの福音を通して神の愛を知り、愛の絆によって自分や他者との自由で広がりを持った関係を作り上げていくことができるなら、カウンセリングや整形術といったものは素晴らしい、目的のための手段となります。そして、その目的とは神であるキリストが私たちの心に住んで下さることです。「主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩篇1:2-3)」イエスが共におられれば、私達は神の愛と命の流れのほとりに生きることができます。