2003年2月9日

「信頼に生きる」 ルカ20:45―21:4

 「私は、自分の顔が醜くて、人に笑われるのが怖いから、学校に行かないの」。「自分の顔は醜い。自分の体は醜い。」こう思い込んで、閉じこもってしまうという、これを「醜形恐怖」と言って、最近増えているといいます。町沢静夫氏によると、この原因はマスコミにあるのです。「雑誌は、足は細く顔はすっきりした美男美女を次々と表紙に載せ、テレビも美男美女を続々と登場させます。毎日毎日、これでもかと言わんばかりに美男美女を見せつける。こうしたマスメディヤの状態が子供たちに影響を与えないわけがありません。『美しくなければ人間ではない』と思い込まされるところまで、今、私たちは追い込まれているのです。」(町沢静雄『心の壊れた子供たち』20)

 “人々がイエスのことばに耳を傾けていると、イエスは弟子たちに言われました。「ユダヤ教の学者どもを警戒しなさい。連中はぜいたくな着物を着て歩き回り,通りで人々から、ていねいなあいさつを受けるのが何より好きです。また会堂や宴会で,特別席に着くのも大好きです。うわべは、さも信心深そうに、長々と祈りますが、その実、未亡人をだまして財産を奪い取ろう、とたくらんでいるのです。こういう連中には、神様から、最もきびしい罰が下るのです。」さて、宮の中でのことです。イエスは、金持ちたちが次々と献金箱にお金を投げ込む様子を見ていました。そこへ貧しい身なりの未亡人がやってきて、10円玉を2個そっと投げ入れました。それを見たイエスは、「実のところ、この女は、だれよりも多くをささげたのです。ほかの人たちはありあまる中からほんのわずかだけささげたのに、この女は乏しい中から持っている全部をささげたからです」と言われました。

ここでは2種類の人が登場します。一人はユダヤ教の学者、贅沢な着物を着、丁寧な挨拶を受け、特別席に座り、長い祈りをする人です。彼の態度は全部一つのことを表していますそれは、人の上に立っている人という意識です。そして彼らは、人の前で生きる人たち(人の評価によって生きる人たち)でした。またもう一人は未亡人でした。彼女は、貧しい身なりでレプタ2枚(10円玉2個)しか献金することができませんでした。それは、人の下で生きていることを表わすものです。しかし、彼女は人の前(人の評価)では生きていませんでした。彼女を見ている人は、たった一人しか出てきません。それはイエス様でした。

彼女は沢山の人に見られていたはずです。でも、ただ一人の方、イエスキリストの視線だけがここに記されます。この方の視線を感じるとき、ほかの人の視線が不思議と消えてしまうのです。?この未亡人は、主イエスから学んだ人であると信じざるを得ません。「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:29)とイエス様は言われました。この未亡人はイエスに学んだ人であったに違いありません。私たちみんな、問題そのものだけで苦しむわけではありません。たとえば、病の症状だけで苦しむわけではないのです。それ以上に苦しいのは、この世の二つのグループの、いい方のグループに自分がいないこと。これが我慢できないのです。この未亡人は、「自分は、この世の中の、弱い、貧しい、人からさげすまれる方のグループにいる」ということは知っていました。でも、そういうグループ分けが、彼女の中ではなくなっていたのです。相変わらず貧しい。でも、そういう自分を嫌ったり、さげすんだりする気持ちがなくなったのです。

 ではなぜ、この未亡人は、イエスからほめられたのだろうか?イエスは、何を見られたのでしょうか?人はお金(金額)に関心を持った。しかしイエスは、献金をするその人に関心を持っておられました。「愛」とは、「その人自身を見ること」です。その人の顔でもなく、その人の体でもなく、その人の行いでもなく所有物でもなく、「その人」を見ることが、私たちにはどれくらいあるのでしょうか?もし、人がみんな、その人自身を見ることができたらさまざまな問題に解決の道が与えられ、多くの人たちが立ち直り、生き直すことができるようになるでしょう。多くの悲劇は、人を魂として見ない、つまりその人自身を見ないから、起こっているのです。あの未亡人の場合は、献金ではなく彼女自身を見た方が一人だけいました。主イエスだけは、ほかの人とはまったく違う見方をされます。私たちもイエス様に教えていただきましょう。「もっと、お互い自身を見つめ合おうよ。手に持っているものじゃなくて、服装や顔じゃなくて、やったことじゃなくて、もっとお互い自身に目を向けようよ。」

 この呼びかけを、今日心の深いところに受け取れるように、祈りたいものです。