2003年1月26日

「主の息吹」 詩篇33:1−6

 私たちの生活において幸福を感じるのは、適度のおいしい食亊、適度な仕事、適度な休日があるときでしょう。適度な山あり谷ありは自然な営みです。すべての活動はサイクルになっています。いつも同じところに止まらない変化。変化が次の変化を生み、また変化する。しかし、同じところへ戻ってくる。季節や一日の移り変わり、血液の循環、人の呼吸など、身の回りにその例がたくさんあります。規則的なリズムを刻む生命維持の神秘。食べ物や自然界の連鎖。

 どうして、私たちの世界はこうしたサイクルで満ちているのでしょうか。考えても到底、その理由を解き明かすことはできませんが、ひとつ感じることがあります。全世界を想像された主が、同じようなサイクルを取り扱っていることです。「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。」(詩篇33:6) つまり、全てのものの活動は、主の呼吸の中で支配されているのではないでしょうか。主のサイクルが私たちのサイクルを回す。しかも全てのサイクルを微妙に関係付けながら。

 こうした主なる神の調和のとれたサイクルは、すばらしい恵みです。主の世界を形作るサイクルは、私たちに、真理に気付かせようと変化しています。動きの中心に主がいます。私たちにはそれが分かりませんが、気付かせようといつも目をかけてくださいます。真理に近づく方法を私たちが自分で探し出すために。そしてどこからスタートしても、やり直すことができるように。「いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。/主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり/御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。」(詩篇 33:12-14)

 しかし私たちは、2つの面をもっています。主なる神さまの呼吸・サイクルに耳を傾ける自分と、自分の力に頼り、主の息吹に気がつかない自分。主の呼吸のサイクルに気がつかないとき、私たちはいろいろな問題をかかえます。人間は不完全でその上傲慢です。自分が作り出した不完全なサイクルを相手に押し付けます。こうしたことが、人と人の間で起こると、いびつな競争や対立が起こります。これがストレスです。

 最近、欝病の話題に触れることが多くなりました。それだけ一般的になってきたものと思います。つまり、風邪と同じで、条件がそろうと誰でもかかる病気なのです。先日、ある雑誌の記事で、女子大生の方が欝を発病しそれを克服した経緯が紹介されていました。その方が長い苦しい経験を通じて知りえたのは、欝になるきっかけは、ストレスの蓄積がベースにあって、人間関係のトラブルが引き金になるということでした。このストレスの蓄積は、一人では起こりません。相手がある話なのです。その大学生は、ストレス性精神病というのは、個人の病気ではなく、家族の病気であると話しています。つまり、その人が属するコミュニティやグループ全体がもつ関係病なのです。そして、家族の場合、毎日複雑なサイクルが互いに連携しようとしており、最も難しい対応が必要なグループなのです。

 しかし、この大学生の方が明かす、欝から脱出できたきっかけは、ゼミのメンバーからの無償の好意や母親からの愛情を知ったときでした。いい子じゃなくても、役立たずでも愛されることを実感できたときだったのです。一見複雑なサイクルの係わり合いで解決不可能と思うのは、人間の思い込みなのです。一時的なストレスはいいのです。そのストレスを蓄積することが問題なのです。そしてストレスを蓄積しない関係作りはできるのです。主の息吹を感じ、主に委ねることなのです。この大学生の方はそのHPで、自分の体験から、欝を再発しないために、無理な我慢はしない、頑張らなくてもいい、弱いことは悪いことじゃないんだ、逃げることは悪いことじゃない、自分を守るための名誉ある撤退だ、と言い聞かせているそうです。つまり、弱い自分を偽らずに、素直に無理であることを表明することなのです。もっと楽に生きることができるのです。

 主の息吹は私たちを生かします。主の呼吸に耳を傾け、主の息吹をいつも感じて、主の息吹に満たされるとき、私たちは真理に気付き、常に新しいサイクルを始めることができるのです。「見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。/彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。/我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。/我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。」(詩篇 33:18 ?21)