2003年1月19日

「あなたの人生と使命」コリントの信徒への手紙一 3:10〜18

“わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。”

 大阪の淀川キリスト教病院の名誉ホスピス長、柏木哲夫先生は最近出版された「心をいやす55のメッセージ」の中でリーゼン・フーバー教授(上智大、哲学科)の語られた言葉について紹介しておられました。私たち人間には、内的集中と外的開放のバランスをとることが必要なのだそうです。内的集中とは、自らの内的思いや考え、思索といったことに意識を集中させるということです。そして、外的開放とは、内的集中によって蓄積されたエネルギーを外に向かって開放する、すなわち、行動に起こすということです。毎日忙しく立ち働く私たちの生活には確かに静まって深く自分の心の内に意識を向けていくことが欠けています。それは、計画なしに物事に立ち向かっているようなものと言うこともできます。本当に良い仕事、業は内面的な充実がなければできないのではないでしょうか?一時話題になった「燃え尽き症候群」という言葉も本質的には内的集中と外的開放のバランスの崩れから来ているのではと思います。信仰者には、祈ること、聖書を読み黙想すること、そして生きることについてバランスを持つことが大切です。しかし、そのバランスの支点、すなわち支えとなるものが私たちには必要なのです。普通に言えばそれは、目標であったり、希望、信念、哲学、あるいは使命感なのかもしれません。

  さて、ギリシャの一地方都市コリントに生まれた教会の信徒に宛ててパウロはこの書簡を書きました。それは、信徒の群れに分派をはじめとする様々な混乱が起きていたからなのです。パウロはその根本的な原因が、間違った土台の上に彼らの関係が築かれようとしたことにあると考えたのです。人間は多様な生き物です。その人間がどこで一致することができるか、何によって一つのなることができるかは変わらぬ人類の課題とさえ言えます。しかし、パウロはその土台こそが主イエス・キリストを信じる信仰であると言うのです。そして、その信仰こそが私たちの生活、人生そのものを支えていく限りない力となっていくのです。柏木先生は、「人生の実力」ということをおっしゃっています。ホスピスで働き、長い間様々な人たちの人生とその終末に関わってこられた経験から、人生の実力というのは、「難しい課題を解決する力」であり、「どのような状況におかれてもそれを幸せと思える力」であると言われるのです。人生の終わりの時に「私は幸せでした。」と嘘偽りなく自然に言える力とも言えます。人生は自分にとって都合のよいことばかり、楽しいことばかりで構成されてはいません。むしろ、苦しみや試練、不条理や矛盾に満ちたことで構成されていると言っても過言ではありません。だからこそ、たとえ不都合が起き、試練が襲ったとしても、その只中で人間として生き、バランスを崩さずに生きるためには、揺るぐことのない土台、変わることのない支えが私たちには必要なのです。

  土台はその上に建物が築かれたら外からは見えません。だからこそその建物の強さは土台の確かさにかかっているのです。あなたの人生の土台は何でしょうか?使命感はどこを拠り所として与えられているのでしょうか?神様は主イエス・キリストを私たちの救いと人生の土台として与えて下さいました。