2003年1月12日

「決心:知らなかった恵み」 ルカによる福音書 18:18〜23

 “ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。”同じルカによる福音書10章でイエスさまは、律法学者に向けて永遠の命に至るために、律法を実行する者となりなさいと言われました。「隣人を愛しなさい」という戒めを当然守っていると思っていた律法学者に向かって、イエスさまは「善いサマリア人」の譬えを用いて彼の信仰の中に決定的に欠けていたものを明らかにされました。上述の議員に対してもイエスさまは、落ち度なく信仰を貫いてきた彼に対し、最も欠けていたものについて指摘されたのです。それは、神を信じてはばかりない彼らが、彼ら自身を未だ神に明け渡していなかったということです。人が宗教的に優れていることはその行いによって明らかにされます。しかし、優れた信仰とはその姿勢によって明らかにされます。

 議員の訪れの前に子どもたちへの祝福の出来事が記録されています。当時は人の数にも数えられなかった子どもたちにイエスさまは光を当てられました。乳飲み子たちを呼び寄せたイエスさまは言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」子供の最も優れた点は、私たち大人が既に失ったものだと私は思います。すなわち、子供は完全に親に依存して生きているということです。そして、親との愛の関係によってしか成長できないということです。依存とは自分自身を明け渡していることであり、愛を信頼するということです。多くのクリスチャンは主イエスの福音を信じ、信仰の歩みを落ち度なく続けておられると思います。しかし、主イエスさまにお従いすることを喜びとする人は少ないのです。先週、スコットさんが、祈り、黙想、そして一人となって神様との語らいの時を一日の生活の中で工面していくことの大切さを語ってくれました。礼拝の中で実際に聖書の言葉を読み、黙想し、互いに祈り合う時を分かち合いましたが、皆さんは先週その経験を生かして生きることができたでしょうか?中には続けて祈りと黙想の時を持たれている方もおられると思います。しかし、実行しようとして続かなかった方もおられるでしょう。イエスさまを訪ねた議員はそんな人だったかもしれません。信仰は持っていて、そこそこ善い人間で、自分はとりたてて悪い人間ではない、礼拝にも毎週来てるし、務めは果たしている、しかし何か自分の人生に欠けているものを感じている。そこで聞きたくなるのです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」信仰生活に挫折を感じている人、何か物足りなさを感じている人、救いの確信を感じられない人・・私は、この議員が悲しんで帰っていったことを人事とは思えないのです。私は金持ちではありませんが、自分にとって大切なものを捨てているかというとその答えは心もとないのです。

 自分は神様に自分自身を明け渡す決心をしたことがあるだろうか?そして、その神に期待したことがあるだろうかと問われるのです。神に自分を明け渡さないで生きる生き方は、自分の手の届く範囲のものしか触れずに生きてしまうことです。しかし、もし私たちが子どものように神に信頼し自分自身を明け渡して生きるなら、自分の知らなかった恵みを生きることとなり、それは人生を冒険に変えてしまうのです。