2003年1月5日

「Meditation, Prayer and Solitude」詩篇5:1〜3、マルコ1:35〜37

 「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ私の魂はあなたを求める。」

 この詩篇の中で、神に近づき成長したいという願望はなんと素晴らしく力強い感情なのでしょう。詩篇42:3で、その感情は続きます。「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、髪の実顔を仰ぐことができるのか。」そして先ほど詩篇84:3を聞きました。「主の庭を慕って、私の魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、私の身も心も叫びます。」この神との親密な関係は現在の多忙な時代でもなお可能なことでしょうか?また、そこに信仰や神との親密さを強化するような秘訣、私たちが学ぶべき何かがあるのでしょうか?

 オリンピックや音楽コンクールなどさまざまな競技に参加する人々、あるいはそこまでいかないとしても自分の好きなことで技を磨こうとする人々を見るとき、彼らが練習をし、失敗をし、学び、そしてやり続けていることに気がつきます。実際、彼らは極めて普通の人であることを認めていますが、彼らには目標へのはっきりとしたヴィジョン、やっていることへの熱情、そして実行可能な日々の行動計画があります。霊的生活に言及する時、しばしば私たちは近道を望もうとします。私も、もし教会に出席し毎日少し聖書を読み祈れば、神により近づきもっと強いクリスチャンに変えられうる大きな啓示がすぐに与えられるだろうという考えに長い間苦しめられてきました。その考えは、私をキリストに導いた人、ニッキー・クルーズという元ギャングリーダーがキリスト者となり、劇的に変えられたことに起因します。しかし、落ち着いてよく読んでみると、彼がクリスチャンになったことは変化の最後に起こったことで、彼はそれまでに日々のしっかりとした歩みをしなければならなかったということが分かったのです。近道はないのです。神を知るためのプロセスは祝福なのです。スポーツ選手やピアニストが体験するわずかな進歩または失敗の感情は、日々神へ近づくプロセスの妨げとはなりません。なぜなら神の真実は私たちの感情よりはるかに大きいからです。

 私たちの救いはゆるぎない、ただで与えられる贈り物であるが故に、プロセスの中で失敗するということに恐れを感じなくて良いのです。しかしながら、キリストにある私たちの成長はどう時間を使うかという日々の決心の中で、神にどう従い委ねるかということと大きく関係があり、そこには牧師、信徒という違いはないのです。実際、多くの偉大な信仰の人々は、日常の仕事の中で、ただ信仰に忠実であったのです。そして、教会の一般の信徒を通して信仰は伝えられ、伝道者や牧師を通して以上に教会は伸びていったのです。調査によると95%以上のクリスチャンが友人の証や模範を通してクリスチャンになったと答えました。それではそのような光や模範に私たちがどのようになることができるのでしょうか?神が私たちの教会に何を求めておられるのかを知るには、御言葉と御声に従うことを通して、私たち一人ひとりが神に近づくよう成長しなければなりません。そして、それは主との交流や祈りや黙想の中で御言葉に触れる機会を日々作ることによってのみ可能となるのです。

 信仰の訓練はつまらない必須科目ではなく、神に近づく道筋なのです。それは、祈り、黙想、一人になること、断食、聖書の学び、奉仕、倹約、犠牲、交わり、告白、礼拝、服従、証、祝典などを含みます。全てのことは、聖書に明確に示され、また、イエスご自身が実行され、明らかにされました。イエスご自身がその生涯を通して祈りを必要とされたのなら、まして、私たちにとってどれほど必要なものかがわかります。私はこのことを、初心者として語っているのです。私は、とても長い間日々の祈りの中で黙想することを後回しにしてきました。しかし、私達に必要なのは、弟子達がイエスに求めた「祈りを教えてください」という、子どものように素直な学ぶ態度なのです。日本に限らずアメリカでも多くのクリスチャンがその忙しさのために祈りや黙想の時間をおろそかにしているのです。しかし、最も大事なことは、命と時とを与えてくださったのは誰か、ということです。それは神です。それでは何故私たちにそのような時間がないのでしょう?神は私たちに神との交わりの時間を与えることを忘れてしまわれたのでしょうか?いいえ、そうではなく、私たち、神の子どもたちが神に近づこうとするプロセスの重要さを見失っているからです。

 世の親たちは子どもたちに与えられている可能性の実現ために躾や訓練をします。その時には子どもたちにとってそのプロセスはつまらぬことかも知れません。しかし、後にはそのプロセスが感謝に変わります。それと同じように、もし私達がイエスの目をもって祈りや黙想のための時間を作ることが、どう長期的に私達の人生に影響を与えることになるのかを見ることができるなら、私達は驚くことでしょう。日本では一人きりになる時間を持つことは難しいと思えます。しかし、夜中に目覚めた時や、散歩の時、家や仕事場の近くの公園など、邪魔されないどこかで静かな時と場所を見つけるなら、その時を用いることができます。祈りは時間の枠に限られたものではありませんが、できれば一日の初めにその時をもつことが望ましいです。その日の聖句を選び、一日の合間に口ずさみ、黙想するのも良いでしょう。また、御言葉を紙に書いて貼っておくのも良いです。聖句も心に残るように自分に当てはめて読んだり、自分の言葉で覚えるのも効果的です。天の父は私達をととも愛しておられますが、私達が神との時をほんの少ししか持たないなら悲しまれます。何故ならこの方法のみがイエス・キリストのようになることのできる方法なのですから。神ご自身創造的な方なので、神との過ごし方も創造的でありさまざまな方法があるべきです。そして、最も重要なことは、神をもっと深く求めるために習慣的に祈りと黙想のための一人になる時間を持つことです。イエスさまが群集を離れ、一人となって父なる神との時間を大切になさったように、私達もそのような時を中心にした生活を作り上げていきましょう。