2003年1月1日

「地の塩・世の光」マタイによる福音書5:13〜16

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 先日の2002年最後の礼拝では、使徒パウロの生きる力の源について学びました。それは主イエスを喜ぶことであり、主イエスの恵みを知ることを喜びとするということでした。新しい年、私たちの教会は益々、その存在の意味と働きとが問われて来ると思います。主イエスはその問いに明確に答えておられます。それは、キリスト者は、教会は「地の塩、世の光」であるということです。イエスさまのまとまった最初の説教は山上の説教と言われますが、そこでイエスさまは、神との正しい関係に導き入れられた人々の幸いについて語り始められました。そして、おっしゃったのです。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天国には大きな報いがある。」と。そして、その教えに続く今日の御言葉は私たちにとっては遥かなる理想で、実現にはほど遠い教えとしか思えないのです。「この私が世の中の腐敗を防ぐ地の塩、世の人々の暗闇を照らす明かりになる。」とはおこがましくてとてもそうは言えないのです。しかし、イエス様は迷いもなくおっしゃるのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と。イエスは私たちに「地の塩にならなければならない」とか、「なるだろう」でも、「なれたらよい」とも言ってはおられません。そうではなく既にそうなのだと断言なさっておられるのです。「理想」が既に実現しているところから始める生き方、それが神との正しい関係に生きる生き方です。イエス・キリストにある救いを受けた人々にはこの生き方があり、この理想と希望と夢に生きる者であるとおっしゃっておられるのに違いありません。そして、それ以外の生き方はあり得ないともおっしゃっているのです。

 塩気を無くした塩などあり得るでしょうか?それはもはや塩ではありませんし、塩と呼べません。また、山の上にある町が隠れることも不可能であるように、キリストにある者たちが神さまとの恵みと愛の関係以外のところで生きることはあり得ず不可能なことなのです。しかし、多くのクリスチャンが新しい、神さまとの関係、恵みに生きるのではなく、救われる前と同じ、この世との関係に生きているのです。あり得ず、不可能なことを平気でやっているのです。そこにおられる神は厳しく、裁きと罰を与える神としか感じることはできません。しかし、イエスさまが「あなたがたは地の塩、世の光です。」と教えてくださる、神の祝福を伴った関係に生きるとき、私たちにとっての神さまは恵みと愛と慈しみに富んだ方だと分かるようになるのです。私たちは「立派な良い行い」を見せたり模範とならなければならないのではなく、神様との正しい関係を守ることを第一とすることにより、神さまご自身があがめられ、神さまに栄光を帰することに心を向けていけば良いのです。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ5:6) 新しい年を主の御手に委ね、へりくだって私たちのなすべきことを喜んで成して参りたいと願っています。