2002年12月29日

「わたしたちの力の源」 フィリピの信徒への手紙4:4〜7

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 フィリピの信徒への手紙は明らかにパウロが獄中から送ったものと考えられます。それがローマからだったかエペソからだったかは定かではありませんが、いずれにせよ常識的に言えばパウロ自身喜べる状態にはなかったはずです。しかし、彼は喜びの私信を送らずにはいられなかったのです。そこで、私たちが使徒パウロから学ぶことは、「私たちの内面的な心のありようは、外側の自分の置かれた状況に左右される必要はない」ということです。私たちの本当の力はこの世から来るのではありません。この世の力に頼るとその状況によって左右されることになるからです。しかし、霊的な存在である人間には力の源が備えられています。預言者ネヘミヤは依然として他国からの支配を受け、力を失っていたユダの民に向けて言いました。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。・・行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(9:9,10) 使徒パウロと同じように、イスラエルの人たちは囚われの身でした。しかし、ネヘミヤはパウロと同じようにその状況に目をくれるのではなく、主を祝い、喜ぶことにこそ力の源があることを知っていたのです。パウロが喜びとしたことの第一は、フィリピ書3章によれば、主イエス・キリストを知ることと、主イエスの復活の力を知ることでした。そして、第二に彼が喜びとしたことは、主イエスとその復活を知ること以外のことを捨てることでした。

 私たちは、さまざまなものを手に入れ、集め、生活の糧としていますし、生きていく上での指針や価値観も自分なりに大切に抱いているものです。私たちは自分の力、地位や名誉、誇りや資格、才能や能力容姿などこの世の基準に従って生きているものです。パウロも彼の告白によればそのようなものにより頼んで生きていた自分がいたと言います。イスラエルの中でも名門の出で、指導者であり、宗教的にも道徳的にも非の打ち所がなく、ローマ市民でもあったパウロは、しかし、主イエスに出会ってからというものそれらの基準がまったく覆されてしまったと言うのです。そればかりかパウロはそのようなものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすらに走ったのです。そして、本来の国籍は天国にあり、とフィリピの信徒を励ましたのです。「喜びなさい」とは、ただ楽天的に空元気を出せと言われているのではなく、エペソ書6章でパウロが言うように、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」ということです。

 「主を喜び祝う」こと、それは主に信頼することから生まれ、感謝と祈りとをもたらすのです。今年一年さまざまなことがありましたが、主の祝福と導きの中に守られ、支えられてきたことを感謝し、新しい一年を主にお任せして歩みを始めて参りたいと思います。