2002年12月22日

「クリスマスメッセージ」 ルカによる福音書2:1〜7

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

 「人生は旅」とよく言われますが、わたしたちのために生まれてくださったイエスさまもその誕生の時から旅の中にありました。最近は、人が生まれ、そして死ぬところは病院と相場が決まっているようですが、昔は家で生まれ、家で育ち、家で死んでいったものです。人が生まれ、死ぬという出来事は神聖なものだと思いますがその現場は時の流れとともに変わっていくようです。主イエスさまのその一生は家畜小屋に始まり、この世の小さな人々とともに住み、そして十字架に終わりました。聖書はそんなイエスさまの誕生から始めて、その旅を淡々と語り続けます。

 人生の旅にまつわる様々な喜びや苦しみは人との関わりの中でその受け取り方や意味が変化していくと思います。よく人生相談などで言われるように、喜びは他者と分かち合うと倍になり、苦しみ悩みは半分になると言います。しかし、人が抱えきれない大きな苦しみ悩み悲しみの中にあるとき、他人に語り聞いてもらうことだけでは済まないことがあります。人の苦しみは大きければ大きいほど他人に理解してもらうのは難しいのです。そして、ある意味で、人にわかってもらえるような苦しみは苦しみではないのかもしれません。そういう意味では、人の本当の苦しみとは他人にわかってもらえないこと、本当には理解してもらえないことなのかもしれません。今年、わたしたちの教会では幾人かの方々を天国に見送るという出来事がありました。私たちには、イエス・キリストによる見送った方々との天国での再会の希望があり、悲しみは悲しみで終わることは決してありませんが、その寂しさや喪失感は理屈を越えて私たちの心に残ります。そして、それらの経験を通して改めて思うのは、人の悲しみの中で最も大きなものは親が子を亡くすという出来事だということです。子を亡くした親のその悲しみを理解し、受けとめることのできる人はきっといないと思います。たとえ同じ体験を持ったとしても互いの苦しみを本当の意味で理解しあうことはできないと思うのです。

 そんな悲しい出来事が起こりえるわたしたちの営みの中に、神は入りこんでくださいました。私たちの人生の喜びと悲しみとを神ご自身が分かってくださるために、神はひとり子イエスを私たちのために送ってくださいました。理屈ではなく神が人となり、人の苦しみを味わうために私たちの人生の旅に加わってくださったのです。そして、人間の最大の苦しみ、すなわち死に至る罪のためにみ子イエスをくださったのです。ヨハネはここに神の具体的な愛が示されていると言います。神はそのひとり子を私たちの罪の償いの犠牲とするために捧げ、子を亡くすことの深い悲しみをも共有してくださろうとしたのです。この世のすべての苦しみの中で最も大きな苦しみを神自ら味わい、その苦しみを理解し、その苦しみから救ってくださろうとしたのです。

 クリスマスは神さまからの恵みのプレゼント。私たちを罪から、死から、悲しみや苦しみから救うために神が用意してくださった愛の形、イエス・キリストを与えてくださった日。私たちにできることは、ただその良き知らせを感謝と喜びのうちに受け取ること。そして、イエスさまと共に新しい旅を始めてみることなのです。帰る場所があってはじめて「旅」です。人生の放浪を行き場のある旅に変えるのはイエス・キリストの福音に聞くところから始まるのです。