2002年12月15日

「待ち望むこと、祈ること」  ルカによる福音書18章1〜8節

 先々週からアドベント(降誕節)に入っています。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを待ちつつ過ごす時です。この時期に、聖書を読み、祈って与えられたキーワードが3つあります。「待ち望む」、「祈る」、「目を覚ましていなさい」この3つです。そしてこの3つの言葉は相互に深く関連していることに気づかされました。

 「待ち望む」、例えば、不況下で職を失った方が新しい職場を見つけられるように、長引く病気と戦っておられる方が一日も早く回復されて家庭に戻れるように、また悲しみの中にある方々が一日も早く癒され、平安が与えられるようにと待ち望み、共に祈りを合わせています。待ち望む時、常に祈りが伴っていることがわかります。

 聖書にもこの「待ち望む」ということが、たくさん出てきます。本日の聖書の箇所は、まさに祈ること、神を信頼しきって祈りつつ待つようにと、主が励まして下さっている箇所です。一人の裁判官が登場します。この裁判官は神を神としない、もちろん祈ることもしない、人を人として重んじない。従って誰の訴えにも耳を貸そうとしないこの裁判官のところに、ひとりのやもめがやってきました。そして「どうぞわたしを訴える者を裁いて私を守ってください」と懇願します。夫のいないやもめは、当時社会的に地位が低く、無力な存在でした。人の訴えなどいちいち聞いてはいない裁判官ですから、1度や2度の訴えなら、うるさいといって適当にあしらったと思います。しかしこのやもめはあきらめず、何度も何度も足を運んで、正しい裁判の実施を頼んだのです。これには、さすがにこの裁判官も根負けし、悩まされなくて済むようにと裁判をして片付けてしまったというのです。神を神としない傲慢な裁判官ですら、熱心に願い求めたやもめの訴えを聞いた。まして私たちを愛してやまない神さまが、私たちを放っておかれるはずがないではないかとイエスさまはたとえ話を通して言っておられるのです。この世の中は、テロや戦争が絶えません。わたしたちの身近にも、病気や家族の問題、仕事のことなど、様々なつらいこと、苦しいことがあります。神さまがいつも共にいてくださっているのに何故このようなことが起こるのか、祈っても無駄ではないかという誘惑にかられます。しかしイエスさまは、どんなに苦しいことがあても、失望せずに祈り続けなさい、そうすれば神さまはその祈りを聞いてくださると約束してくださっているのです。

  マルコ13:32でイエスさまは「その日、その時は誰も知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っている。気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」と言われています。「目を覚ましていなさい」とは、いつも神さまに心を向けていることです。待ち望むときその答えはいつ与えられるかわかりません。ですから心の目をしっかりと覚まして、祈り続けるようにと励ましてくださっています。来週はいよいよクリスマスです。目を覚まして神さまの答えを祈りつつ待ち望む者として、歩んでいきたいと思います。