2002年12月8日

「願いと希望と」 ルカによる福音書1:26〜38

「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。』(30、31)」

 多くの人は、完璧で非のうちどころない人よりも、不完全でたまには失敗するような人に親近感を覚えるのではないでしょうか。あまりに立派な人の前にはなぜか安らげずくつろげないのです。そんなせいか、人間によって作り上げられる神様はどこか人間くささがありますし、完璧な神様より親しみを覚える神様の方が受け入れられやすいようです。それは、神様を人間のイメージ中心に作り上げているからかもしれません。しかし、聖書に現れてくださる神は人の手によって作られたものではなく、逆に人が神に似せて造られたのだと言います。だからこそ人は目に見えるものだけで生きることはできず、永遠なるものを求めるのだと思います。人にとっては近寄りがたいほどの聖なる完全な神は、私たちに近づき受け入れられる存在となるために、人間ぽい親近感を与える形で私たちのもとに来られたのではありませんでした。そうではなく、文字通り神は人となり私たちと同じ姿で人間を母として生まれてくださったのです。無限なる神が、有限で弱い、人間という器の中にご自身を閉じ込めてしまわれたのです。それは、神ご自身が罪人の体と同じ形で生まれ、罪なき生涯を送り、神と人との間を隔てていた「罪」という溝を埋めるために聖い犠牲の供え物となられるためでした。その尊い犠牲の愛によって人はキリストの十字架と復活の福音を信じることによって救われることとなったのです。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」との天使の言葉はマリアにとっては予期せぬ最悪な出来事の始まりでした。マリアはいいなずけのヨセフとの結婚と、新しい人生設計に心をはずませていたに違いありません。しかし、突然こともあろうに神ご自身から邪魔が入ったのです。身に覚えのない妊娠の知らせはマリアの将来への望みを台無しにしてしまいました。彼女は説明のつかない出来事に遭遇してしまったのです。ひるがえって私たちの人生を考えてみますと、マリアのような体験はないにしても、私たちの願望とは裏腹な出来事がしばしば起こることを私たちは知っています。むしろ、私たちの願い通りになる人生など実際にはないのです。しかし、私たちが神を知り、神の私達に対するご計画を認め受け入れるとき、試練の中に見えない希望が与えられていることに気付くのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とのマリアの応答は神のご計画の成ることを信じる者の心の静けさと広がりを表していると思います。自分の願いや思いによって生きる人は、恐れや不安と隣あわせにあり、神の希望に生きる人はどんな出来事の前にも開かれた態度と平安とがあります。エリサベトはマリアに言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 神の約束を待ち望む人は、たとえ行き詰まり、八方ふさがりとなったとしても、不思議な主のみ手の業により守られます。クリスマス、救い主の誕生、それは待ち望む者に与えられた生きた希望そのものです。生きている人々に信仰にある約束を分かち合うべきではないでしょうか?そして、そこに悲しを喜びに変える力があるのです。