2002年12月1日

「信仰に抱かれて」へブライ人への手紙11:13〜16
 
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」。

 本日の礼拝は召天者記念礼拝として守ります。今年、私たちの教会の家族の中からも天に見送った方々がいらっしゃいます。飯塚希理恵さん、内山賢三さん、思い出すたびに悲しく寂しく思います。しかし、私たちは悲嘆にくれて生きていく必要のない約束が与えられていることを神さまに感謝します。詩篇35編は歌います。「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。わたしは安らかな時に言った、『わたしは決して動かされることはない』と。」ヘブライ人への手紙が告げ知らせるように、私たちはこの世における寄留者、旅人です。いつか元いた所に帰るべき旅行者です。しかし、私たちと帰るべき天の御国との間には深く渡ることのできない溝があります。罪という神と私たちとを隔てた溝を私たちは埋めることはできません。しかし、神は人の知性によれば愚かと思える方法でその溝を埋めて下さいました。それが主のご降誕の知らせ、福音です。ヘブライ書は「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」と言います。しかし、実際には彼らは神が与えて下さった福音とその福音を信じる信仰に守られ、信仰に抱かれて死んだのだと思います。

 3週間ほど前、横須賀長沢教会の浅野繁政牧師が天に召されました。先生ご夫妻は12年前、愛する息子さんを脳腫瘍で16歳という若さで天に見送られた後、信仰を失うことなく主に信頼してその歩みを続けられました。退職後献身し神学校で学び、横須賀の教会に赴任し、その生涯を主と共に送り、先日今度は先生ご自身が癌との闘いの後、愛息の待つ天へと召されて行ったのです。この世の報いは決して多くはなかったかもしれません。しかし、先生ご一家に示された神の愛と恵みは苦しい試練の中で絶えることはなかったと思います。なぜそれほどキリストを信じる者たちは福音にこだわるのでしょうか?それは、神の救いの愛を信じると同時に、私たちが肉体的に死んだ後、裁きがあることをも信じており、裁きにより一人の魂でも滅びることがないようにと願うからです。聖書は聖書の言葉を信じようが信じまいがどちらでも良いとは言っていません。神ご自身が一人の魂も失いたくないのです。私たちにお与えになった自由意志で神の愛とその形であられるキリストによる救いを受け入れ、永遠の命を私たちに選び取って欲しいと願っておられるのです。

 使徒パウロはローマ人への手紙10章において、誰が天国に行き、誰が地獄にいくなどという愚かな論争は避けなさい。むしろ、主イエスにある救いの福音は、裁き合いや論争のためではなく、一人の魂も損なわれることがないようにと与えられた神の恵みなのだと言うのです。目に見えぬ神によって救われた者たちが生きる目的の大部分は、神のご存在とその神の愛の証であられるキリストによる救いを伝えていくことです。パウロは「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。(1コリント9章)」とまで言いました。私たちが信仰によって天に見送った人々と再会の希望があるなら、尚のこと今生きている人々に信仰にある約束を分かち合うべきではないでしょうか?そして、そこに悲しを喜びに変える力があるのです。