2002年11月24日

「赦されし者」ローマ人への手紙6:1〜4

 およそ2000年前、使徒パウロの伝道によりシリアの首都アンテオケに建てられた教会は最初の異邦人教会となりました。ステパノの殉教の後、多くのキリスト者がアンテオケに集まり、ここで初めて彼らはキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになりました。(使11:19‐26)その時以来、クリスチャンの言葉と行いとは社会に影響を与えると同時に批判の対象ともなっていきました。多くの多様なクリスチャンが生まれ、社会との関わりも多様化しました。「あなたそれでもクリスチャン?」・・・最近もよく聞く言葉です。クリスチャンにとっては耳に痛い言葉です。しかし、私はこの言葉こそキリスト者の原点を問う言葉だと思うのです。

 以前、私はメッセージの中で、クリスチャンとはティーバッグの中の紅茶の葉のようなもので、それだけでは味も香りもそっけも無いということを言いました。しかし、そんな茶葉もカップに入れ、温かなお湯をたっぷり注ぐことで豊かな香りと味を楽しむことができるようになります。大切なのは注がれ、満たされるお湯です。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(2コリ2:14)とパウロが言うとおり、クリスチャンが神に良しとされているのは、私たちの行いによってではなく、神の恵みによるのであり、それにより私たち自身が香るのではなく、神が私たちを通してキリストの救いという知識の香りを放ってくださるのです。

 私たちクリスチャンの言動がクリスチャンであることを物語るのではなく、どのように私たちが救われたかが私たちがクリスチャンであることを物語るのです。スティーブ・マクベィはその著書「恵みの支配」で、救いとは神の恵みを根源とし、それによって人は聖とされると言っています。そして、その聖なることから人は離されることはないと言います。茶葉とお湯とが一度混ざり合うことで、以前とはまったく違った物質「紅茶(ホットティー)」が出来上がると同時に、その混ざり合った物質は再び分けることのできない存在になってしまうことを知らなければなりません。つまり、神の介入によりクリスチャンになった以上、クリスチャンはすでに「聖い者」という新しい存在になっているのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)

 クリスチャンの行いがクリスチャンであることの証であるなら、この世には一人もクリスチャンはいないと思います。それは、行いはどうでも良いということではなく、本当に良い行いというのは、神との正しい関係の中から生まれるということなのです。ある人が、「神は私たちの祈りへの答えとして、実ではなく種を与えてくださる。」と言いました。それは、私たちのどんな苦労や努力にも主の目は注がれているとともに、しかし同時に神との関係にない行いは実を結ぶことはないということであり、逆にどんな小さな苦労であっても神との関係にあるなら、多くの実を結ぶということです。パウロは言います。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エペソ2:8-10) キリストにあって赦されし者、それがクリスチャンの救いと行い、全ての原点です。