2002年11月10日

「神の前にある平等」第1コリント12:14〜27

 コリント第一12:14〜26に私たちは身体のそれぞれの部分だということが記されています。聖書はそれぞれの部分が互いに個性を持ちながら尊重しあっていると言っています。平等という観点でいうと現在の学校では一人の生徒のために良かれと思って何か働きかけようと思えば、それは全体を考えると「えこひいき」つまり不平等になってしまうため、全員に全く同じ働きかけをしなくてはならなかったり、ひとクラスが良いことをしようとすると、全体がそれを出来ないのなら不平等になってしまうので、全体のことを考えて、良いことなのにやめなくてはいけないこともあるのです。すべて、平等の原則に反するからです。

 神様の平等は全員に同じ物を与えるのではありません。聖書のタラントのたとえでは10タラントの者もいれば5タラントの者もいると書かれています。

 そのように与えられているのもは一見不平等でも神様は私たちを「あなたは高価で尊い」とおっしゃっています。与えられているもの、今できることは様々に違っていても「あなたは高価で尊い」とおっしゃっているのです。私たちはそれに気がつかないでいるのではないでしょうか。

 「あなたは高価で尊い」という言葉をいつも聞きながら実はその意味を私たちはなかなかわからないで過ごしているのではないでしょうか。

 私たちは神様の前で平等です。与えられている物の違いはあれ、私たちは平等です。ですから、私たちはみだりに誇る必要もないし、また逆に卑下する必要もありません。それならば、私たちはもっと大胆に行動しようではありませんか、私たちに与えられたタラントを十分に使って歩もうではありませんか。今、私たちの教会は新たな教会堂建築の夢に向かって進んでいます。その時、私たちには多くの働き手が求められています。会堂は建物を建てればそれで良いわけではありません。私たちに与えられた物を十分に生かして、喜んで神様のことを伝えて行こうではありませんか。

 私たち一人ひとりがその持ち場を生かして働きましょう。そして、聖書のその先13章2節でこれらすべてのことは愛が無くては意味がない。と書いてあります。神様を信じて、愛を持って力強く歩んでまいりましょう。