2002年11月3日

「杖を投げて」出エジプト記4:1〜3

 神さまは私達に願いを起こさせてくださいます。しかし、往々にしてその願いを達成するために私たちは神の力よりも自分の力に頼りがちです。主は言われます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ29:11)」 神の与えて下さる私たちへの計画は正しいものですし、その動機においても聖いものです。しかし、人がその計画に対し自分の手段や方法に頼るとき、その計画は台無しになってしまうことがあります。詩篇が「霊が人間を去れば人間は自分の属する土に帰りその日、彼の思いも滅びる。(146:4)」と歌うように、人の業は人と共に滅びてしまいますが、主の業は滅びることはありません。

 出エジプト記はイスラエルの民がエジプトから脱出し、故郷に帰る出来事を記録した書物ですが、神はモーセという人物に目を留め、願いを起こさせられました。拾われてファラオの子として育てられたモーセはいつしか自分がイスラエル人であることを知ったのです。そして、虐げられている同胞たちを自分の手で助けてあげようと思い立ったのです。彼の動機は同胞を救うという正しいものでした。しかし、方法を誤ってしまうのです。同胞を助けるためにエジプト人を殺し、同胞からも責められることになったモーセは40年もの間ミディアンの地で隠遁生活をしなければなりませんでした。彼は自分の方法に頼り、失敗してしまったのでした。しかし、神は神ご自身の力に委ねる信仰を彼に与えるために失敗を失敗で終わらせませんでした。

 それまでファラオの子として誇りを持っていたモーセは羊飼いに身をやつし、わずかに羊を狼から守る杖で自分を支える者と成り果てていたのです。しかし、神はそんなモーセを待っておられたのです。彼をイスラエルのリーダーとして立てるために主は現れてくださいました。時々、私たちの身の周りではまるで神が私たちの持っているもの、幸せや誇りや力などを取り上げてしまわれたのではと思うほどの試練に出遭う時があります。そして、さらにそれを上回るほどの苦難に遭うこともあります。モーセはまさに神に選ばれた者として、主の前に砕かれた存在でした。自信を無くしていたモーセに主は「あなたが手に持っているものは何か」と問われました。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われ、彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいたと書かれています。蛇はエジプトでは力を象徴している生き物でした。今、彼の頼りとしていた杖を主は捨てよと言われるのです。そこで神は神の業をなさるというのです。人は何かを頼りとしなければ生きていけない生き物です。しかし、多くの場合私たちは神さま以外の何かをとっかえひっかえ頼りとして生きています。たとえクリスチャンとなっても奉仕や良い行いといった業を頼りとし、神ご自身の力に寄り頼んだ生き方を選ぶことに抵抗を感じていることがよくあります。「自分で何とかしなければいけないのではないか。」その動機は正しくとも自分の方法に頼ろうとする時、私たちは失敗を準備していることになります。

 モーセの持っていた杖は主がモーセと共におられることの証となり、神の杖と呼ばれるようになります。私達に何ができるかではなく、神が私達を通して何をなさろうとしておられるのかが問題です。あなたや私が今、頼りとしているものを主は地面に投げよとおっしゃっています。そうすれば、あなたの業、私の業ではなく、主が私たちを通して主の業を成して下さいます。クリスチャンは自分の正しい行いによって満たされるようには造られていない。主と繋がっていることで満たされるように造られていると言った人がいます。モーセに神は言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。(3:12)」