2002年10月27日

「主の御手の中に」コリント人への第二の手紙4:7〜10

 何かにつけ毎日の営みの中で、その始まりに「式」を行うのが私たちの常です。幼稚園に入園するときも、小学校、中学校、大学でも入学式を行い、就職でさえも入社式を行うくらいです。しかし、どの世界でも初めの式でその営みが終わらないように、むしろそれからが大変です。クリスチャン生活の成長も最初に自分自身を神さまに明渡しただけで留まることはありません。預言者エレミヤは主の言葉として、選ばれた民、イスラエルを主の御手の中にある陶器と呼びました。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。(エレミヤ18:6)」。彼らは絶えず主の御手の中にあって守られ、形造られ、導かれる存在だったのです。しかし、彼らは主の御手の中にあることよりも、自分の力で変わることを選んだのでした。

 クリスチャンも恵みによって選ばれ、救われ、バプテスマ式を受けた後、それで信仰生活が終わる訳ではありません。最初は救いの喜びに満たされた人も、次第に疲れを覚えたり、信仰生活に疑問を持つようになったりすることがあります。それは、私たちが知らないうちに信仰の原点からはずれていく性質を持っていることから起ることだと思うのです。信仰による義、すなわち、私たちが救われたのは良い行いによるのではなく、神の恵みによるという、自分の力によらない神の力による救いであったことを忘れることから起るのです。自分の力で救われるとは、さながら自分の襟首を自分で掴んで持ち上げるようなものです。できるはずがありません。でも、私たちはそれを救われた後も行いがちなのです。人の力による行いだけに目が行くようになるとクリスチャンの働きや奉仕は命のない形だけのものになってしまいます。しかし、主と共にあり、主に結ばれた所に始まる働きや奉仕は神さまの命があふれ、命が通うものとなります。イエスさまご自身、単独で自分の思いのままに働かれたことはありません。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハネ5:19 )」「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。(5:30)」私たちが失敗するのはぶどうの木であるイエスさまにつながっていないからなのです。

 詩篇34:9(口語8節)に「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」とあります。私たちが主の恵みを味わうことができないのは、私たちが主の御もとにない所で動いてしまうことによるのです。そして、主の恵みの香りを世に放つことができないのも自分の香りを放ってしまうからなのです。私たちは皆神さまから違う器(体)、違う賜物(個性)をいただいています。紅茶にもさまざまな種類の香りがあるように、私たちにも様々な個性という香りがあります。しかし、お茶の葉だけでは香りません。それぞれの器に入れたお茶の葉にお湯という水が注がれて初めて香るのです。しかも皆違う素敵な香りを放つことができるのです。大切なのはお茶の葉でも器でもなく注がれるものです。神の聖霊(私達に目に見えない神を見させてくださる助け主)が注がれて初めて私たちは生きた働きができるのです。パウロは言います。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。(2コリント2:14)」そして、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」と言い切るのです。バプテスマという水によって聖められた私たちの生活や働きが聖められ、生きたものとなるためには、主につながっていることです。主の霊が注がれるよう行いの前に祈りを置くことであり、祈りつつ全てのことを行うことです。