2002年10月20日

「受け入れる人」マルコの福音書10:13〜16

 「先日、私の子ども二人がバプテスマを受けることができました。聖霊様の導きに感謝いたします。この二人の子のバプテスマという出来事を通して、私は改めて自分の考えの狭さを思わされ、そして今までいかに自分が聖書の語ろうとしているメッセージを正面から受け取っていなかったかを思わされました。

 以前の私はバプテストとして「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」という聖書のみことばの通り、バプテスマはちゃんと自分の意思で神を信じたものが受けるものだと考えていました。ですから、幼い子どもへのバプテスマには、正直抵抗があったのです。聖書もまだ読めないような子どもが、果たして本当にちゃんとした意思で告白したと言えるのか?という疑問を持っていたのです。

 しかし、今回自分の子どもがバプテスマを受けると言い出したとき、その今までの自分の考えが根本的に間違っていたのではないか、と気付かされたのです。

 イエス様が、律法に執着するあまり本質を見失っていたパリサイ派の人々をたしなめる話が聖書にはよく出てきます。そんなところを読んで、頭で理解したつもりになっていた自分が、実は同じように「聖書」というものに対して律法的な態度でであったと気が付いたのです。

 イエス様は、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。子供たちは、細かい聖書の知識などありません。イエス様が十字架にかかってくださったのは自分の罪のためということは聞いて理解しても、それにいたる経緯や、なぜそうならなければならなかったのかなどは多分わかっていないでしょう。しかし、それにもかかわらず、子供たちはなぜか「バプテスマを受けたい」と言うのです。これは不思議なことです。

「お父さんとお母さんが二人ともクリスチャンで毎週教会に行ってれば、自分もそうなりたいと思うのは当たり前だろう」と言われるかもしれません。その通りです。だからこそ、それが「愛」なのではないかと思うのです。子供たちが両親から愛されて育てられているからこそ、子供は両親のようにしたいと思うのです。愛情を注がれずに育てられた子供は、決して親のようになりたいとは思わないはずです。

 「バプテスマを受けたい」と言う子供たち、イエス様のまわりに集まってくる子供たちは、決して聖書の内容を細かく理解しているわけでも、イエス様のプロフィールをよく知っているわけでもありません。しかし、頭では理解しなくとも、心が「愛」を受けとめているのです。だからイエス様は、子供たちが来るのを妨げてはならない、と言われたのです。

 このことを思う時、本当に聖書が語りたいメッセージというのは「私はあなたを愛している」「あなたは愛されてんだよ」という一言に尽きるのだということに気付かされます。細かい知識や深い理解は後からいくらでもついてくる。その前にたった一つの大切なこと「愛されている」ことを感じ、受け取りなさい、と神様は言っているのです。イエス様もルカの福音書で、マルタという女性にこう言います。「あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかしどうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」本当に必要なこと、それが愛だと思うのです。

 「子供のように神の国(愛)を受け入れる」このことは難しいことでしょうか。大人はまず頭で考えてしまいます。そして世間のしがらみの中で、それを何とか自分の生活に擦り合わせていこうと努力します。だから難しいと感じてしまうかもしれません。しかしよく考えてみると、それは案外簡単なことなのではないでしょうか。神の国を求めるというのは、愛を求めるということです。神様が愛してくださっているということを知るという、たったそれだけのことです。そしてそれは遥か高い所にあり自分が修行し、努力して勝ち取るというものではないのです。常に「恵み」として目の前に差し出されているものなのです。私たちはそれをただ手を伸ばして受け取るだけ、受け入れる人になるだけでいいのです。自分が愛されていると言うことを知るところからすべてが始まる。そしてすべてがついてくるのだと、神様、イエス様はおっしゃっているのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」私たちは「愛すること」ではなく、「愛されること」から始まりました。神様が差し出して下さっている「愛」を受け入れない人ではなく、まず受け入れる人になりたいと思います。そこからすべては始まります。